2015年2月5日木曜日

起こらぬこと、ならぬことの意味

養老翁は、よく起こることの意味と同様起こらぬことの意味を吟味せよと教える。
よそではあれだけ起こっているのに、こちらでは起こらぬ。
こちらではこうなのに、あちらではああ。
それにはそれなりの理由があろう。

わが国は遺伝子分析では、さまざまなルーツで人々が集住するようになったと明らかにされている。
その人々が、地政学的に島国としてアイソレーションされた為だろう、八百万の神仏を抱き、一神教の国ではしばしばみられた徹底的な宗教的抗争やジェノサイドを免れ、せいぜい島流しや平家の落人集落で済んできた。

狭い国土、細い弓なりの地で、とことん殲滅戦を戦えば、日本沈没状態は神代の時代に招来されただろう。
日本古来の憲法17条も基本理念を和を以て貴しとなす。
王家も絶対王政などからはほど遠い祭司の長である。

こうして大したナショナリストでもないわれも、わが国に起こらなかったことごとを上記のようにことほぐ気はあるものの、このところの国際化、ボーダレス状況はついにそのようなモラトリアムを許さぬかのようである。
特に基本認識は変わる変える必要はないと思うが、まあ大変ではある。

ならぬこともさも似たり。
このところならぬことは、それなりにならぬ理由があり、ならぬ方がよいのかもしれぬ。
それでも運命の不可思議さを味わえるところまで行けば一人前なのだろうが、まだまだ半人前の自己満足も得られていない。