2015年2月17日火曜日

時制

先日亡くなった渡辺淳一氏がまだ精励に医学小説を書かれていた頃、自分が主治医だったらしい少女が、亡くなる前日必死で将来治ったらこうなりたいああなりたいと言って逝った話を書いておられた。
ベッドのまだ暖かい凹みの描写もされていて、夭逝した少女の切なさ、もののあわれを感じさせる叙述だったが、このところ日々そう思う。

生きているのは今を限りで明日は知れぬ。
この少女のように明日明後日はないかもしれぬ。
あとになって、あの頃はと追想できるのは実はまずは幸せということである。

過去も同じく。
済んでしまったと思われる過去が浮上して今を蚕食されるのは小説や有名人のスキャンダルだけではない。
親の介護、グレた子供の面倒などもさも似たり。
子供の頃に世話になったから、自分が作った子供だからと言っていられるうちはましで、限度を超えるとなんとかならんか、なんとかなってくれとなる。

こういうことが多発すると、世の常識は変わる。
その転換点に今来ている。
さかしらに古いパラダイムで自分を棚上げして棚上げ音頭を謳っていると痛いシッペ返しが来そうな様相である。