2015年2月15日日曜日

プロファイリング

雪山に閉じ込められていることもあるが、このところの日々の集積というか、つけというか、少々身体を本気で労らないとヤバイという症状も出ているので、セルフケアに努める日々である。

この作業で気がついた。
文明社会での多重人格性である。

医療もお大事に程度の思いやりで医道的ヒューマニズムが発揮できた時代は、素朴な優しさや隣人愛が通用した。
しかし、今や時代はハイスペックで、複雑系の時代。
医師ですらもうヒポクラテスを脱するなどと標榜する。

自分自身そうである。
自分はセルフケアにはこうするが、患者さんに向き合ったときにはとてもそうできない、しないということがずいぶんある。
考えも違う、希望も違う、技術や文明文化への志向が違う相手に、自分にはこれがいいからと処方を提供すれば、ひとつ間違うと大悲劇が生じる。

これはその他の人間関係、立ち居振舞いでも同じようなことがいえる。
自分にはこれがいいからと、他人様に強くアピールすれば、それはずいぶんと外れになることは、このところ多いように感じるようになった。
これは謙抑性の勧めというつもりはない。
むかしも、薄情も情のうちという言葉もある。
その人が嫌えば、いくらそうしたらそうなるよと思っても黙っているしかないことも少なくない。
某有名評論家は、淫祠邪教に走った娘の脱マインドコントロールに必死で頑張ったが、しばらくして亡くなった。
このような命懸けも愛ゆえで、それは否定できず、唾棄すべきでない尊い行為とも思う。
ただ、そういうことのなかなか選びにくい時代に入ったとも思い、それゆえ自分のことは自分で始末をつけるしかない時代かと結論をより強めている。