2015年2月2日月曜日

存在被拘束性、あるいは想像力

国の内外にまがまがしいニュースを聞きながら、まずまず穏便に暮らせている。

このような幸せを検証してみる。
水や空気がうまい。
アフリカやアラブの砂漠には水が乏しい。
われらが国だって、しばらく前までは水争いもあった。
北京市長も空気は生きるに困難と自認した。

これらからだけでも、実にわれらが現況の暮らしは恵まれている。
曽野綾子女史のアフリカ行などはミッションに基づくものだが、そのレポートなどを読むとわれらが暮らしは世界を見渡せば王公貴族レベルと慶賀してよいレベルとわかる。

ただ、無知蒙昧から不平不満、ピント外れの、故三宅先生おっしゃるところのポン助はこのようなポイント、機微に疎く、ネットなどでは支離滅裂なごたくが空を飛んでいる。そういう有象無象がのさばるにはのさばる理由もあるわけだが、これだけボーダレスになった世界では、それもなかなかたち行かなくなってはこよう。

ということで、先般書いたように、鏡に写る己も左右が逆で、客観視などということは至難の業ではあるが、それでもあそこで生まれていたらとか、ああ育っていたらなどとささやかな想像力を駆使して己のありようを省みる。
それこそインテリジェンスというものであろう。