2015年3月31日火曜日

スキップ

春になって、スキップらんらんらん、という話ではない。

昨日はタブレットを変えてネット散策したのでblogをいじるのを忘れた。
どうでもよしないブツブツゆえ、それはどうでもいいのだが。

とんでしまうペースメイキング。
ペースメイクするなら、もうちょいましなことがないのか。

そんなことを思いつつ、そこまで言って委員会と朝生の直近アーカイブをBGMに。
どちらも昭和ノスタルジー色つよい。

そろそろ終わりのはじまりというより、真っ最中化?

2015年3月29日日曜日

only yesterday

YouTubeのお勧めに見覚えのある題名。

年代からすると、30年以上も前。
今は白髪の翁の姿が、まだ青年。

監督も左の作品も作れば、ピンクも得意と活動していたころ。

車も古い。
携帯もない。
昭和もまだ昭和昭和していたころ。

こんな映画、どこでみたのだろう。
Dejavuでなく、本当にみた記憶はあるから、あの当時なら場末の映画館か。

主人公のシャキナベイビーがアングルによっては元首相の面相によく似ていて驚く。

その監督も、先日交通事故だかで急逝。
ホント、人生の儚いこと。

2015年3月28日土曜日

内ゲバ

それほどシビアにもみえないが、ネットで保守派の内紛をウオッチ。

しばらく前は、お互いにヨイショしあっていたのが、いまや悪罵の応酬。

右と左など、敵扱い同士は、論難はすれど、もともと気が合わず、相手のことは気○○○と思っているゆえ、こういう形の憎悪劇にはならない。

ところが、同志と思っていたのに、あんな奴だったのか、はキツイ。
別に今に始まったことでなく、大昔から仲間内の喧嘩は凄惨を極めることが少なくない。

あんな奴とつきあった、あんな奴を推奨した不明を恥じる、そうは言うものの、基本的な発想は変わらぬから、このマッチが一区切りしても、また別人とやりあうのだろう。

こういうの見ていると、昔の皇道派統制派の抗争を連想したりもする。
かくして、また負けちゃうんだろうな。

2015年3月27日金曜日

元鞘

元のブラウザとワープロに復帰。
やはり使いなれたものの方が数段使いやすい。

必要あってheavyに使うとはっきりと時間差、誤字率に出る。
たまにこういう不具合が出ると、この辺りのあやがよくわかっていい。

さて、ちょい遅いスタートになったが、こういうのもいい。
マンネリの時間推移が少しフェイントがかかって刺激になる。


2015年3月26日木曜日

同じタブレットにバンドルされているブラウザだが、たまにフリーズする。
いまもフリーズ中。

ということで、日頃使わないもう一方を使用中なのだが、日頃こちらを使わないには理由がある。
改行しての初入力が、うまくいかず、再入力の必要がある。
別にその手間を惜しまなければ十分使えるのだが、ブラウザやワープロにもなくて七癖あり。

このところそういうのがよく見えてスッキリ。
週刊誌も定番で読んでいたのも読まなくなった。
新聞バッシングするほどでない同類の癖を見いだしたから。

もう要らぬものばかりだが、一番面倒なのが残っている。
いましばらくゆえ我慢するというものか。

2015年3月25日水曜日

風雨強かるべし

夜半に風の音が高じた。
彼岸のころにこういうのを経て雪が消えるのを思い出した。

昼間のように霰が窓打っていたかは夢うつつで定かでない。

養老翁と建築家隈氏の対談本を二冊読んだが、少しというか、かなり違和感。
まあ、養老翁がいつも書かれているように、書物は癲狂院のようなものであるし、考えてみれば読む方だってパラレル。
組み合わせによってしっくりくることもあれば、なるほどと思ってもありがたいと思わぬところもずいぶんでてくる。

それに輪をかけたようなのがネット。
ずいぶんと軽症化したリアルに比べ、妄想、リゴリズム、その他実際の一刀両断を欠いたテロリストの如くまがまがしい言説が空中戦を繰り返している。

このような嵐は、春への過渡期でもなく、環境をより汚染しているようにみえる。
いわば戦前、いやびまんしたテロや確執を特徴とする現代をいうならば戦中か。

朝になって、日差しの明るいのが眩しく快い。

2015年3月24日火曜日

見ぬもの清

鶴の恩返し、やさぶろえ、その他こわい話はずいぶんある。

見るなの禁止を講じた友も、ドンタッチの言葉を敢えて無視して歌った。
友情だなあと思う一方で、さわらないで欲しいご本人の気持ちも思う。
だいたいは、こういうことは生きている人の自由になるから、言い残しても無駄かもしれない。

いろいろ見ると、語りづらくはなる。
戦争体験のある某万年助教授は、言えないこともずいぶんあると言っておられた。
単にPTSDなどと今風の話でなく、黙するほかない歴史的事実も山ほどもあろう。
五木寛之氏がご母堂の死をとつとつと書かれていたが、言葉を選んで、筆が折れそうなほど抑制が利いた筆致で、読めば想像できるものの、読者もrefrainし難い。

イスラム国の連中が、先祖帰りしたような残酷さで狼藉を繰り広げているが、大人しい戦記ビデオ見ただけで、実際の戦争のきつさがわかる。画面の端に山のような被弾者が横たわる。
首切りはイメージとしては恐怖の植え付けに好適だろうが、旧式の砲戦でも一瞬に屍の山であり、のんびりとした気持ちなど一瞬に飛んでしまう。

北アフリカといっても、イタリアのほんの先。
観光しかない国なら、恐怖のイメージは死活問題。
見ぬもの清でいかぬ現実ではある。

2015年3月23日月曜日

雪投げ

まだ少々残っている雪の塊を路上に投げる。
その下の土がぬるんでいる。

玄関のタイルが幾ばくか剥げ落ちている。
結構厳しい冬だった。

せいぜい二、三十度の幅の中で生きている。
温度だけでなく、ホワイトアウトの中を行進して死ぬかと思ったのもついこの前だ。

季節は巡り、こちらは少々おいて行かれ、ノスタルジーにひたりながら、新しい芽吹きに目をやったりもしている。

玄関、横は少しさっぱりしたが、裏は放置で大丈夫だろうか?

紫陽花の枯れた茎を踏みおろうとするも、反発力に負ける。
あれだけの雪にのしかかられてかくのごとく強くサバイブしている逞しさ。

2015年3月22日日曜日

久しぶりに

公園に。
ほぼ一冬ご無沙汰したが、やっと雪が消えた部分を歩くことができ復帰。

わんこらも欣喜雀躍。

気に食わぬおばさんに吠えられる。
破瓜型の大人しいおばさんと思っていたが、虫の居所が悪かったのだろう。
いつもブツブツが高じて被害妄想が爆発してもよろしくない。
あえて遠目に歩いたのだが、むつかしいものだ。

春の日の陽光は快いが、世の中の環境は芳しくもなし。
われらが世界、広くかくのごとしとならば、あえてノンシャラン。

当面このペースで雪の融けきるのを待つ。

2015年3月21日土曜日

人はパンのみにて

地下鉄サリン事件から20年。
震災と違って、教祖抱えた集団による故意のテロ。

もう20年も経つ。
イスラム国を称するテロの脅威が語られるが、ちゃんと日本発の淫祗邪教がサリンなる猛毒ガスを撒いて多数の人々を死傷させた。

イスラム国に魅了されて、イギリスから渡航する少女たちの話を、YouTubeのニュースアーカイブで聞いた。
上手なオルグということもあるのだろうが、よくもまあとは思う。
もちろん、オウムも高学歴諸氏が手足となってテロを遂行し、そのまた一昔前の連合赤軍なんぞも大同小異。

そういうものなんだろう。

イデオロギー、宗教、いろいろ形はあれど、生のエネルギーが内攻してかどうか、鬱積し濃密となり遠慮会釈なく世の禁じ手を、こともなげに遂行する。

これが人間がすることだから、される方は鬼畜の振る舞いと罵るが、純然たる自然災害のようなものならばクワバラクワバラと念仏しかない。

人はパンのにみにて生きるわけではないが、ある意味で豊かになればなるほど、この手のフラストレーションがたまるということはある。

至極むつかしいものである。

2015年3月20日金曜日

~♪は、意図的。
いや無意識か?

まあ、全体的には、相手がこうすりゃ乗るだろうな、というところを適宜にセットして、やっぱり嘘だったじゃんよって話か。

丸々しっかり意図的に絵図を描いた詐欺事件は、嘘とよくみえるが、多くの往来、やりとり、起承転結は、それほど明瞭でない。

嘘のなかには、他人様相手の嘘だけでなく、自己欺瞞なんて自分を意識的に、あるいは無意識的に騙すなんてのもあるし。

強気の国士風のこわもてが、病気になったらすごく弱くて自死しちゃったなんてのがあるかと思うと、歯医者でタービンの音を聞いただけで失神するようなこわがりが、いまわの際は、しっかりと皆にあいさつしていったなんてのもあったり。

動物なんぞには、擬態をなりわいに、他人様の労力、成果を素知らぬ顔でかっさらえたり。

まあ、この世は嘘ばかりでできているのかもしれないが、人々が高貴な嘘に感動して物語まで出来ることもあったり。

虚実も実はよくわからんという量子力学っぽい朝。




2015年3月19日木曜日

春眠、、、、ちょいと

暁はちゃんとおぼえており、適宜には目覚める。
ただし、ちょいと後ろズレ。

どうせいずれは永遠に眠るのに、いま眠りを貪ることもないだろうとも思えど、慌てて起きて特に急く用もなければ、適宜に目覚めるまで寝てればいい。

そう思うところが少しの後ろズレ。
寒い冬の方が、起きるのが厭で布団から起きにくいようにも思うのだが、自分の場合はかくのごとし。

起きて朝風呂に浸かりながらタブレットなんぞ叩いてると、これも無駄にも思う。
昨日読んだ養老先生の新書にも、SNSなんぞやらないと書いておられた。
自分がそこそこネット三昧しつつ、こんなもの要らないと思っている。

これも要らないに入るのだろうが、某タレントの死後騒動の反論本。
興味本位で取り寄せて読んでみたが、どちらもスラプスティック。
やっぱりご本尊がしょうもなかったんやろなとなり、周りの有象無象もそうかとなる。
ほなら、今のこれもあれやわいなと、足下も色褪せる。
ほんま困った春の夜明けの夢。

2015年3月18日水曜日

遥かなる戦い

もうすっかり値崩れして安い太平洋戦史のDVDをボチボチと観ている。

撮っているのは米軍の広報だから、ほとんど日本軍が追い詰められるシーン。
間投的に日本側のフィルムや米軍が撮した特攻シーンが出てくるが、まあわれらがご先祖がぼこぼこにされる図がほとんどとなれば切なくはある。

物量やロジスティクスを垣間見ると、これでは負けるはなと思う。
他方、アメリカというのは、ほんに好戦的な国であることよとも思う。
日本に焼夷弾と原爆を食らわせて属国のごとくしたあとも、朝鮮、ベトナム、アフガニスタン、イラク、延々と河岸を変えて戦争を続け、休む間もほとんどみない。
しかも、朝鮮、アフガン、イラクなど終らずに次の火種を抱えつつである。

もちろん、よそ様からみれば、しっかり厭戦のお札を押し付けられたことを奇貨として、米だけでなく、ロシア、中国、ヨーロッパ、その他どこも許されていない自衛負担フリーで経済的利益を確保しやがってということになるかもしれない。
追い詰めるとキレ易い国民性でもあるから、あの程度で置いておけばいいと思われているのかもしれない。
別に薩摩の守というばかりでなく、自衛隊も持っていれば、思い遣り予算も立てているから、そこそこよそ様並だと言えなくもない。
高い装備を買わされて、基本ソフトは自主使用できぬようされているらしいから、実質的な評価はむつかしい。

てなことを思いつつ、白黒画面でほんの数十年前という感覚でみている。
ということで、このようにみえるということは、わが世の残余もそろそろ払底が近いか

2015年3月17日火曜日

ビュリダンのロバ

心理学でたとえ話に出されるが、空腹のロバが左右の干し草の中間点にいる。このロバが右にも左にも行けず、中間点の現在地で右顧左眄しているうちに餓死してしまう。

どちらかを選べば後悔するのでは、失敗するのではと不安が出て、結局最悪の結果となる。

いまの時代がこういう風景かも。
右に行っても左に行っても、ああじゃありませんか。
まだ高度成長で、右も左も真っ暗闇じゃござんせんかと歌っていても何とかなっていた時代は、まあそれでもよかったが、いまやそれこそが現実。

そういうことすら人口に膾炙せず。
質の向上が叫ばれる一方で、悪質な出来事が頻発し、子供が少ないから歓迎されるかと思いきや、遊びもできぬ窮屈な環境。
年寄りも素直に長寿は喜べず、長生きはリスク。

ままよ。
ロバも干し草なんぞ気にせず、放浪すればよかったのかも。
ロバも歩けば棒に当たる。
そういや、このところわんこも棒に当たるような自由散歩は夢のまた夢であることよ。

2015年3月16日月曜日

紙一重

休みの夕に、コラムニストと科学ライターの対談アーカイブをYouTubeでみた。
アーカイブといっても極く最近のものだ。

勝谷某氏も政治だ風俗だばかりで走り回っているのかと思ったら、このところ自然科学づいているという。相手の竹内某氏は理論物理の研究からそれて科学ライターになったお方で、どちらも賑やか。間に若いアシスタントのお姉さんが、素人感想を上手に挟む。

素粒子の動態や宇宙論の話を聞いての感想は、初めてではないが、いつもシュールで、何とかと何とかの間は紙一重と言われるようなわからなさを感じる。
どちらも土素人の領域だが、仏教哲学などにも似ていると思えど、いくら色即是空と耳にすれど、死んでも骨は残り、しまいには化石になったりする。
そんな即物性と、理屈上の訳わからなさも両立はするような気がして、まあワケわからず生まれて、ワケわからず生きて、ワケわからず死んでいくらしいことは、このごろ骨身に沁みてきたから、あとは体験の始末だけだろう。

先般も、ノーベル賞候補レベルの俊才が、病死その他で亡くなったが、別に不思議でなく、普通の人がよく亡くなるようななくなり方だ。
洋の東西問わず、もっと長生きされたビッグは、そこで宗教的なこともおっしゃるようになる。
この辺りも、よくあることというか、よくにている。

紙一重から神一重になって顕在性を持った個人というシステムからは失せる。
諸行無常なり。

2015年3月15日日曜日

レバタラ

深夜食堂のある回に、レバニラとニラレバが出てくる。
どこが違うのだろうと調べてみると、どちらが主かの違いにすぎないようだ。

レバタラとタラレバの違いもよくわからないが、レバタラ、タラレバ、どちらでもいいが、仮にこれがこうなっていたら、結果は真逆だったかもよという議論がよくなされる。

この前どこかで織田信長が本能寺で焼き討ちに合わずに天下を取っていれば、日本は世界の覇権国になっていたかもという記載をみた。
義経は死なずに、実はジンギスカンになったのだという途方もない話もあるくらいで、レバタラを超えてトンでも歴史噺に飛躍することもままあり。

しかし、実際はそうなるべくそうなった、こうなったということがほとんどだろう。

先日久しぶりに戦国自衛隊のDVDを観たが、近代兵器は確かに戦国時代に比べれば超弩級の破壊力を持つが、砲弾や燃料が続かなければ、いずれただの箱や筒になる。

レバタラでなく、だからこうといったところで物事は進む。
そしてその原理はというと、勝者必滅会者定離。
わが国得意のもののあわれ、無常ということ。
だからこそ、レバニラいやレバタラは精がつくのだろう。

2015年3月14日土曜日

存在するものは合理的である

実におかしいなと感じることがずいぶんとある。
矛盾を何とも思わず。
厳然と存在する事実を無視して。

しかし、考えてみれば、そういうことさえ合理的でもあるのだろう。
矛盾なしでものの運営が困難ならば、一定能天気になることにも必要性、合理性はでてくる。

もちろん、あまねくこれをやればベタの現実肯定主義や暗転したときの総懺悔でうまくない。
その辺りのバランスも大事だろうが、まあ万物の霊長と厚かましくも思い行いする存在だから、そういうものではあるわけだ。

少しトウが立って、そういうところから離れて自省してみたいと思えど、ここまで来るにずいぶんといろいろにまみえている。
新機軸など至難。

やはり、殊勝な心があるならば、カウントダウンに合わせてブツブツとお経のごとくゴタクを吐き出していくというものか。

2015年3月13日金曜日

回る回るよ~

まだ小さかった頃のこと、便所はぽっとん、汲み取りだった。
故郷を出て、生きていまや水洗どころか、ウオシュレット、自動洗浄等々が当たり前のようになっている。

汲み取りの頃は、堆肥にも使っていたようで、保健の時間に回虫などの生態を堆肥にからめて教わった記憶がある。
いまも北朝鮮では、し尿が経済的価値と認められて、足らない家は税の如く堆肥代を徴収されると聞いたが、近代的な肥料が発明されるまでは、我が国でも似たりの部分はあったよう。

ところで、このところ医療で糞便の移植についての話をよく耳にする。
トレンドのひとつのよう。
医学や医療は、プラクティカルなものだから、効用があれば別に不思議はない。
あれだけ除菌だなんだと清潔イメージを売りながら、これ。
病気で困って、それが効くとなればおかしくもない。
別にトンでも医療ということでなく、無菌のヒルやウジ虫を傷の治療などに利用する向きもあるようだから、何でもありのうちのひとつだろう。

虫と言えば、回虫の一種のアニサキスが、未発見のガンに蝟集したことにヒントを得て、尿からガンを診断する方法が開発されているところらしい。
まあ、オシッコ一滴で「あなた原発不明のガンです」なんてご託宣受けて、いろいろ探しても出てこず、分かるまで時間待ちなんてなれば、大きな不安抱えて、どこがご利益なのか分からないが、それはそれで技術進歩なんでしょう。

オウムも頭に何かかぶってマントラを唱えていたが、脳科学系の先端技術もあの手のかぶりものが日進月歩しているごとく。
フェイクとほんものもきわどい。
きわものといわれるものも、きわものなりにらしき口上は向上させる。
昔、何とかワクチンで門前ぎっしりのところが、ちょいと座ればピタリと当たる式でトンでもと揶揄されたが、正統派といわれるところとどう違うかというと、回虫モドキの根拠がないのに自信ありげに言うからですという話。
大昔、大病の貴族が、貴金属なんぞを摂取して薬としていたらしいが、いまだってプラチナ製剤なんぞをガン治療に使っていて、違いは統計や理屈の違いだけで、昔の人も何かに気がついていただろうことは容易に想像できる。

人の致死率は一生でみれば百パーセントだから、回り回っているうちに終わる。
斯くして医療評価、値問いは難しいという話。

2015年3月12日木曜日

春待ちの街角

寒の戻りはあったが、日内格差も大きいところ。
隙を狙って外回り。

街中は雪もずいぶんと消え、動きはスムース。
特に滞りなく回遊終了。

たまっていた紙情報に目を通すと、大変だという声がほとんど。
まあ皆が皆そうならば、特にこちらがどうこう屋上屋も必要なし。

少し寒気が緩めが喜び、戻ればボヤキ。
それでいいような気がする。

若い人々が欣喜雀躍することもなく、こんな大変な時代に適応していることに敬意を抱く。
まあ恥ずかしくないように工夫してみようかと思う。

2015年3月11日水曜日

寒ブリ

魚の話ではない。

雨が続いて雪が流れて、そろそろ冬も終いかと思ったら、結構降り積もった。
明け方に除雪車の轟音を聴いたが、考えてみれば毎年こんな風ではある。

季節の変化も直線でなく、スパイラル。
裏も表も見せて散る木葉のごとく、くるくると舞いながら化身していく。

キュアとケアと二分律で語る知り合いがいるが、実は本当はケアもキュアもせつ然とはなく、ある程度リカバーしても心身に刻印を残して、トータルでは老いて、最後は電池がきれかけの懐中電灯のように瞬き終わる。

季節は、太陽や惑星の周期で再び冬から春へと回帰するが、ひとの個体は土に戻るだけ。
だからこそ、世代、社会、時代がと続くのだが、今やそういった向日性が見出だしにくい。
たぶん社会情勢がそういった希望的観測を許さないのだろう。

かといって、ペシミスティックに寒い寒いとばかりぼやいていても埒も開かず。
まあ、何はともあれいつものように適宜ビバーク。
だいたい当たるところは当たるが、外れるところは外れる。
棚ぼたはなくとも、果報は寝て待つ。
冬眠いましばしのクマのごとく。

2015年3月10日火曜日

春の嵐

夜半より雨風強し。

これでずいぶん雪も融けようが、昨日小雨に車庫前清掃したのは何のため。
よい運動になったから○。

車は出入りできるようになったが、この悪天候では出がたい。
ロック状態いましばらく。

関西の島で血腥い事件の報。
被害者と被疑者の同姓やら入院歴みると、八つ墓村の係累版か?
内外のニュースのまがまがしさみれば、狂気の蔓延が緩くない。

雨に歌えばを口ずさむ。

2015年3月9日月曜日

どうでもいいことばかり

まあいいかとオミットしていけば、SNSなども種切れ。
それ自体どうでもいいとすれば、どうでもよいことではある。

ただ、その程度に思えることも、生活に、人生に直接間接に重大影響となれば違ってくる。
自分に大きくなければ扱い難く、スルーするほかないこと多し。

そこいら辺りをスッキリと切り分けられればいいのだろうが、そう容易でもない。
複雑に入れ子細工になっていて、最後はネットなどでブッチャけになっている構図も関係しているのだろう。

今朝も、ガサ入れでビルから飛び降りた被疑者のニュースを読むが、命への執着もどうでもいいことに入りつつあるか。
自分も人様もそうならずいぶんと殺伐にはなるというものだ。

2015年3月8日日曜日

知らぬは、、、

なるほどと分かるのが遅い。
これも愚図の一種。

かと言って、さっさと分かってどうにかなることならいいが、どうかんがえてもこうにしかならないという話なら、所詮遅かれ早かれの話で、大同小異。

まあ、知らぬは亭主ばかりなりは、落語によく出てくるが、知っても知らなくてもああにしかならないよなあってことは少なくない。

そうであれば、覚悟の上で甘受するというか、そんなものだと諦観する。

それでもやるべきことはいやほどある。
縁なき衆生と己の雑念をも見切れば、それなりに爽やかではある。

2015年3月7日土曜日

マイペース

マイペースというのが、一応ありそうだ。
しかし、それを測るのは難しい。
実際に、愚図でいらちでそれが同時に出たりするとマイペースどころでない。

自身の事情だけでなく、環境がそうだ。
気温も日内変動が激しく、天候などこっちのことなど知ったことかである。
そうなりゃあペースメイキングなど放擲した方がペースを作りやすいかもしれないといったところだ。

このところそう思うから、ボチボチでも進捗すればよしを目安にしている。
昨日ももう少しかかるかと思っていたらすぐ返ってきたものがあったので、休み中に清書するかなんて、さらに予定どおりの到着だが、使えないからしばらく塩漬け、使えても使えなくてもいいかなと整理ということもあり。

まあ、こういうおとしどころが合ってるかもという意味ではマイペースか。

2015年3月6日金曜日

やってみないとわからない

マシンの具合も使ってみないとわからない。
マシンのせいかと思っていたら、電波状況だったり。
加えてマサカ!というような坂もあり、そうなると歩留まり考えて余裕の必要もわかったりする。

味も、質感も同じ。
そこそこのところを達成するには、試行錯誤、時間が要る。
自己満足のレベルでも、それは同じ。
芸術家が気に入らぬと苦労して完成させた作品をぶち壊すのは、そういうところから来ているのだろう。

ニャンスは少し違うが、養老翁などが変わるのは自分というのも、これにさも似たりやもしれぬ。
自己満足というのは、あくまで自分のなかでの満足ゆえ他人様の賞揚唾棄からはずれる。
自分のインプットアウトプットで自分もメタモルフォシスを経て、他人様の毀誉ホウヘンはさはさりながらこれじゃワイなというのが、それなりの自己満足。

相当の紆余曲折、これじゃあかんとぶち壊すを繰り返し、やっとこまあこんなもんかといったところ。
今日もその繰り返しかな。

2015年3月5日木曜日

探しもーのは何ですか?

昔作ったマニュアル本、探してみたら廃棄してた。
いっとき断捨離凝りで必要最小限と判断した本以外処分したことがある。

パソコンのホルダーも右に同じ。
ワードやPDFで残していたソースもきれいに始末したようだ。

ゴミ屋敷を避け、端正にと思った挙げ句が、一から再スタート。
マニュアルっぽいサイトを見つけDL、printout。

考えてみればアホみたいな話ということだが、まあ生きてる証拠でもある。
先のことは分からない。
要ると思ったものが要らず、要らぬと思ったものが要る。

そのうち何もかにも要らなくなる。
諸行無常。

2015年3月4日水曜日

えっちらおっちら

このところやり残してきた手作業をやり終えるべく挑戦中だが、ここのところぼやいている通り、先様に翻弄されてばかり。

ところが昨日はスムースにポイントを商品に換えることができた。
PCを変えて手続きして認証がスムースに行ったようだ。
コンピューター社会のメリットデメリット。
すっと通ればあら便利。通らなきゃ不便極まりない。
それがハッキングされる話だと、暗転する。
ほんに物事は一筋縄でいかない。

ちょいとある書式を探したが、すでに始末したらしく姿がみえない。
ネットで探すも容易ならず。
やっとこさ動画系で見つける。

まあ、いつもえっちらおっちらやっていかないと浦島太郎になる時代。
面倒だが、ネグってサボってだと、そのつけはよけいに面倒。
ということで、今日はそのサイトのケンケンフクヨウ。

2015年3月3日火曜日

みんな夢の中

承前日。
役所、企業、電話照会してみたら、もう少しわかり易く書いてくれていたら、手間要らずだったねって話。
そのためにあたしらが居るということだから、スーパーのカゴの如く放置して失業率を下げるのに協力するかということになるのかもしれないが、ちょいと工夫すりゃ利用者もこんな手間も要らず、それも税金や利用料で二重取りかと思うとブーイングは出る。

技術革新で質が向上と思いきや、さにあらず劣化顕著ということ多々。
要はいくら技術革新しても、解決せぬことは少なからずあり、その劣化部分が他を押さえる。
リービッヒの最少律のようなもので、足りない隘路でごてる、こける。
あわれな殺され方をした少年も、本当の駆け込み寺があれば惨事を免れたかもしれないが、学校も、母親も、警察も、児相、その他善意の人すらサポートできない。
学校は何十回と母親に電話を入れているが、母親もネグレクト気味なのか、のらりくらりとかわしている、警察も児相も事件の起こる前に駆け込んでも元に戻される可能性が高く、駆け込むモチベーションはわかない。
善意の人も、誘拐、その他犯罪の未遂、虞犯者の如く扱われる危険性の高い時代ゆえ、慎重な人ほど関与しがたい。
そんな中で、反社会的人格障害をうかがわせる加害者がフリーハンドを得て、現実がこう。
いまに始まった話でなく、連合赤軍事件、オウム事件、コンクリート女子高生事件、高学歴のスピンアウターから高校生まで、特にそれまでの異常性格性がうかがわれない人々が凶行に及んでいるのをみれば、必ずしも急にどうこうしだしたということでもないように思える。

昔どうり九官鳥のように口真似を続ける自称文化人も、自称教育労働者も、平和を唱えれば平和だとトートロジーを繰り返すが、敗戦時の教師のように、時代が変われば、自分の口に墨を塗るような悲喜劇を繰り返すのだろうか?

何かあると、ちょいとこうすりゃあうまくいくではないかとは簡単に発想したり、口にすることは容易だが、言うは易く行うは難し。
ちゃんとできない訳がしっかりとある。
みんな夢の中という話。

2015年3月2日月曜日

直接と間接、言わず埋め込み

納税、年金、キャリアの解約。
続けてやってみると、この国の国柄、組まれ方がよくわかる。

決して露骨に直接にいけずをしているわけではない。
さりげなく、小さな字で、間接的に表記したり、あるいは付言しなかったり。

お上に、大企業に都合よく仕組まれている。
決して被害妄想でなく、実際の申請手続き等々は、お上に便利なように、下々が面倒というか、わかりにくくして、利益少なきように作られている。

キャリアのような大企業も、bundleで押し売りした小さなサービスを解約しようとすると、実にしにくい仕組みに構築している。
そこに関連している子会社、関連会社など解約ボタンも設置せず、半分詐偽のようなものだが、月に何百円程度のもので騒ぐ人間も多くはないの算段なんだろう。

保守派は麗しの国と自画自賛するが、こういういぎたなさを長い歴史で培ってきており止まない。
では反体制派のいうように過酷で無茶苦茶かというと、それほどでもなく、ちゃんと面倒な手順を踏めば、結構権利や利益は確保できる。
あいまいの国ではある。

そうなれば、サイレントマジョリティは右も左もろくなもんでないというお約束で、鼓腹撃壌を願うということになる。
情報化社会、国際化、少子高齢化、格差強化その他もろもろで、このような曖昧さはどうなるか?

先の長くない先行世代は消えるわけだが、気持ちのよい時空だったのか、これからどうなるのか、これまたはなはだよくわからないところである。
いずれにせよ、おおきに変わったなりわいであることは間違いなさそうだ。

2015年3月1日日曜日

後悔先にたたず

いま某グループの金銭問題にまつわるスキャンダルについて、それを糺す一方の座談会を聴いている。
首長選に立候補した人間を支持したものの、候補と取り巻きが選挙資金をわたくししたという疑惑を強く指弾している。
いずれ司直の手によって明らかにされてしかるべきレベルの疑惑なので、遠からず真相のかなりの部分は巷にもわかるようになってくるだろう。

それはさておき、政治は結果責任である。
候補の脇の緩さ、ハニー、こそ泥被害その他いろいろ従前から報じられたところ通りのいい加減さがもろに結果として出た。
論難している旧支持グループの総帥も、候補の脇の甘さを見て取れなかった点は、自分は彼のようにいぎたなくないという廉潔性の有無よりも重い。

このような保守派の内紛っぽい話を別として、世はコンプライアンス問題で拘束衣をまとわざるを得ない時代に、寝首のかきあいの様相が強い。
下手にタッグを組むとかくの如く。
だからといって大きなプロジェクトは組まないとならない。
この総帥も後悔めいた言葉が多い。
こんなことになると思っていれば当然タッグなんぞ組まなかっただろう。

しかし、このような事象は今後もいやほど出てくるだろう。
それにしても、酒席、その他の好感度と、本気のところのギャップというのはよくあることだが、実際に耳にしてみると、確かに質感がよく出ているなあと思う次第。