2015年2月1日日曜日

「私」は必要か?

今はミッション感に溢れているので全く気にしないが、そこはかとない不全感にさいなまれ所在ない空虚さに葛藤していた日々は、「私」なんぞ必要なのか、果たして自分はこの世界に必要とされているのだろうかと自問自答を続けた。
妻子のいた頃はそれでも自分が悪戦苦闘であれラッセルしないと立ち行かぬと共依存、多重依存で気をまぎらわすことができた。
しかし、自由な独り身になると、そういう紛らわしは奏功しない。

己の不在、つまりは死後を考えると、「私」の有無などどうでもいいじゃないか、とも思わなくもなかった。
しかし、とりわけスピリチュアリズムに傾倒しなくとも、評論家的、コンサルタント的アプローチを進めてみると、「私」は決して「私」で終わらない。
親の因果が子に報い、元配偶者に及び、ブーメランで死後の自分のゴーストの動きにもビビッドに影響する。
養老翁は、他人のことどもに想像力を及ばせる能力をインテリジェンスといい放ったが、まさにそのとおり。

「私」の要否を知るためにも、ひとたび狭い「私」から離れる必要がある。
そんなことは昔の人もとうに気づいていた。夏目漱石が則天去私、鴎外が「かのように」と立ち居振る舞ったのもまさにそういうことであろう。