2015年2月28日土曜日

三寒四温

久しぶりの外回りで融雪で水温む道を悪戦苦闘して一回りして、天気予報を聞くとまた大荒れの予報。
三寒四温どころか、ジェットコースターのような循環だ。

陰と陽、静と動、別にチクロイドでなくとも人生は万事流転。
どちらも味わうにしくはなく、それぞれしのぐことができれば後で無駄はないとわかる。
季節は厳冬から春へだが、時代は不穏でせわしない。

課題とすれば、ナンピン。
ならして、裏を読み、表を見せ、最後は大和の国人ゆえ、そこにもののあわれを見いだしつつ散っていくというものか。
少子高齢化でこんな綺麗事を言ってられない現実は続いていくのだろうが。

2015年2月27日金曜日

消耗戦

歳をとると、歯目なんとやらで嫌でも加齢の効果を実感する。
それはある意味で幸せなことで、若いときからハンディがあれば、加齢とは違ったニュアンスで不自由を実感させられる。

生老病死を四苦八苦の四苦というように、生き物の宿命ではある。
生きて老いて衰えて死す。
そういう意味では、消耗戦、敗戦は既に結論としては出ている。

そこで、やはりさはさりながら、蟷螂の斧を手にしてみる。
敗軍の将、兵を語らずというが、老若男女貧富問わずこれは私戦である。
天下国家を大文字で声高にあげつらった強面が、妻に去られて自裁するなどということもある。

私戦ゆえ、どこまで続くぬかるみぞもない。
おわれば終わり。
少子高齢化が進み、空き家が増え、その税金も特例法ができて空地なみに高くかけられるようになった。
資産価値に乏しい負の遺産となれば、相続放棄も増えるだろう。

わがカウントダウンは、かくのごとき風景の素描ということになろうか。

2015年2月26日木曜日

さはさりながら

面倒な事務仕事完了。
大したことなさそうで結構疲れる。
渡世の義理、いや義務ゆえやるほかない。

まあ、何もやることなくて腐っているよりはいい。
どこまで続くぬかるみぞと歌うほどぬかるんでもいない。
面倒、うっとうしいなですむ程度のことはボケ防止に丁度よい。

大抵のことはこういうこと。
他人様もおおむねデューティはこういうことだろうし、ノリノリにやっているようなことも、あたしゃ他人様と違うもんとなれば、どうぞご自由に程度の風景となる。

ということで、そういうことならば、よくも悪くも自己満足でシコシコと続けていく、またいま往っちゃっても後悔なし程度のことを楽しんで、あるいは苦闘していくほかない。
だから、さはさりながらを大事にして、晴耕雨読を続けていくこととする。

2015年2月25日水曜日

聞く耳持たず

SNSなんぞで書き込みを見ていると、、、、。

リアルで知っていた像とはずいぶん違う、あるいは違わないがあそこまでああなのか、なんて発見が多い。

所詮他人様のこと、クレムリノロジストのようにああでもないこうでもないと詮索する気はないが、見かけとはずいぶん違うのは諺どおり。
まあ、初対面で遠慮してたのが、慣れれば崩れるなんて、いま風にいえばツンデレなんて表現もある。

マッチングを考えるには、継時的なウオッチングが大事。
わからぬところはわからぬに。
あわなければ路傍の傍観を貫くも大事。

2015年2月24日火曜日

ビジネスモデル

いろいろと考えてみるが、先が短い、タイトな関係性が軛の時代。
どう自由にいつ以上で終わりとなってもよいモデルを模索するとどうか?

なかなかいいアイデアもない。
もちろん、どんなに盛ったモデルでも時代に合わねば速やかに退場するし、一般的になくなって困るものなどそうない。
俺がいなきゃと妄想幻想しても、四十九日もたたぬうちに忘れられる。

この年末年始いろいろとシミュレーションしてみたが原点回帰。
やはりスタンダローンで気ままにやることに。

この時代、その追究かもしれない。

2015年2月23日月曜日

頭隠して

ファックス売り込みなんぞ見ると、いまの有象無象業者はデータ売買しているのだろうとよくわかる。
blogにこれを書けば、ファックスにあれ。
メールなんかも同じ。
売り込みメールに似た動きがある。
Amazonだなんだが閲覧や購買傾向を見て次を宣伝というのは、自社データということでよくわかるが、いまの時代、内外なしの覚悟は要る。

まあ、自分は頭も尻もclosedと思っている場合でも、色に出にけりなんとやらで、他人様の察し、プロファイリングは岡目八目で鋭い。
もちろん、他人様も各位それぞれのご本人モードがあるので、ご本人に都合の悪い真実は見ぬふり、見落としはあるので、鋭いばかりでもない。

まあ、天知る地知るなんでも知るで、なんでもバレバレをデフォルトに考えておくのがいい。
もちろん、インテリジェンスの問題があるからには、まずい結果を強く危惧するときには、クールに「隠された手紙」の如くリスクマネジメントしなければならない。

テーマは違うが、頭も尻も隠せない自分自身が、困ったちゃんの自分をどうあしらうか、接遇するか。
ここも大きいが、これも至難のわざではある。

2015年2月22日日曜日

コラージュ

右左上下老若男女、できるだけ偏見なく見聞きしようとは思っているが。
知ってみると、当然こちらの評価は出てくる。
いいじゃないかと同時に、噴飯モノも岡目八目で出てくる。
もちろんこちらの勝手なスクリーニングだから、向こう様がそれを知れば、当然なにバカなこといってんのよということになる。

このところ仕事でもプライベートでも、マッチングを中心に考えるようになってきた。
人々の価値観が自由に伸び伸びと多様化?というと画一化も強いが、ロングテイル、内ゲバなどという視点からは、百人百様っぽくなってきている。
そこで高度成長のころのような重厚長大画一的なアプローチを志向すると必ず隘路にぶつかる、少なからず後に揉める。
先日のリクエストにも応需困難とご説明した。

いまなお過去のパラダイムで動いており、未曾有の時代、状況だから、当面すべからく空振り、「ブラック」気味で推移するのだろう。
ビッグデータで「ありていのところ」がわかってもロングテイル、微細に手当てできなければ多数に大雑把に吹聴するパターンは変わらないということになる。

細々は従来のパラダイムでいけば手間ばかりかかる不採算ということになる。
リタイア環境、IT利用等々をうまく組み込めば、ハイコストでなく、適宜のトリアージ、適切な摩擦係数で運べるようには思う。
これから自分の実践で確かめると言うものか。

2015年2月21日土曜日

スピード感

このところ家籠りで昨日は久しぶりの外出。
家の中でこまめに動いていたつもりだが、外で一気に歩くと少々息切れする。
やはり散歩くらいはしたいものだ。

ところで、こうは思いつつ、考えているのはユックリズム。
基本落ち着いてユックリゆったりがいい。
ノロノロ怠惰は失敗、ダメにつながるが、あわてるときほど落ち着いてユックリやるのがいい。

雪上でころぶのは、向こうから避けなければならないものが来てテンパったようなときが多い。
次はノンビリしすぎて雑念だらけのとき。

丁度よいスピード感、タイムキーピングが重要。
そこにsnapで的確な判断できれば強い。
緩急のコントロールと自由度をまず把握して動けるからだ。

もちろん、この総合が至難。
日々の鍛練の要るところ。

2015年2月20日金曜日

むくいる因果

親の因果が子にむくいなんて諺があるが、このところそうだなと思うことしきり。
別に血統論や富貴貧弱の話ではない。
岡目八目で、ああしてればこうなるわなあ、こうなら次はああだろうと見える話。
親があのありようで、子にこのような対し方してれば、すぐに、あるいは積年の繰り返しでこうなるだろうことは多い。
中には反面教師にして、あの親にして、こんな子ができるのだなあなんてこともありだが、そういうことはレアである。

別に親子関係だけでなく、人間関係、環境問題ほとんどがそうである。

もちろん、こうすればこうなることとは知りながら、あえてこうするというようなかつての志士のような選択もあるが、そういう美学もこういうところに育って醸成されたものである。

このところ自分についてはほとんど諦めている。
まあこういうもんだ。
そう外れてない。

人様の場合は、自分に与えるアドバンテージ、贔屓がない分だけ岡目八目分は辛辣になる。
その論理、その選択だと、あんたの言ってるやってる逆になるだろう。
そうすぐ気がつくものだが、このところこちらのほうも諦めている。
他人様も自分と同じく緩いアドバンテージを享受して愚考権を行使しておられるわけで、それを滅茶苦茶に論難しても始まらない。
まあ世間を見渡すと、ちゃんと批判も出てきている。
他山の石程度が丁度いいのだろう。

某右派勢力の内ゲバもウオッチングしてみると、いずれ起こるだろうと思っていたパターンである。
天網カイカイ粗にして漏らさずなんぞというのも同様の意味なんだろう。

2015年2月19日木曜日

馬には乗ってみよ

部屋で寝ているジョーバ風は、インテリアになっているが、たまには乗ってみる。
身体を揺らせたいときには実に重宝で気持ちがよい。
まあいろいろと多目的に使ってよし。

このところSNSやその他のネット情報源についてもそう思っている。
上手に使えば全部で一本というところがある。
それぞれに長所短所があり、リスクも少なくないが、これもトータルで一本。

このところネットに限らず、問題解決志向型で動いているが、結論的にはそれが一番だろう。
あとは試行錯誤しかない。
正解など簡単でないし、もともとないようにも思う。

まずは乗ってみないとはじまらない。
乗ってみて、これは無理だというのも成果。
人生気がついてみると総合学習ということになる。

バカとハサミは

タブレット1の組み込みブラウザがよくへたる。
何か弱い特性があるのだろう。
昔はタブレット2に変えて作業を続けていたが、いまはクロムにシフトしてしばらく休ませれば再起するのがわかって他機を起動する必要がない。

多数を使い分けつつ、一機の強み弱みをじっくりと見ていくと、それぞれの得て不得手もわかり、全体的にパワーアップできる。

バカとハサミは使いようという諺がこういう含意かどうかは知らず。

お偉いさん思想家さんとかいう方が作家のコラムが炎上したのを奇貨として傘にかかるようにはしゃいでいる。
ご一統さんのバカ医者成金もさも似たり。
SNSの左巻きのスレッドではcoprolaliaの糞尿譚風。
こういうのも使い道はないことないと思う。
それを考えるのが社会進化というものだろう。
当面はバカの晒、炙り出しで十分だろう。

養老翁がバカの壁で示したのは己のバカ論である。
自分の壁まで一貫している。
自分にとっても課題は、そこのところである。
これは自分というだけでなく、他人様肉親パートナー富貴貧弱健者病者老若男女皆同じ。

ということで、今日も使い方の研究。
リンカーンと同じ。

2015年2月18日水曜日

デトックス

このところ異種パートナーとの共依存的デレデレを排し、たまには怒鳴ることにしている。
もちろん向こうは言葉の委細は分からぬが、怒りのマグニチュードでどれだけ怒られているかは察する。
それが生きていくために必須な悪さなら隠れてするだけになるが、ちゃんとしたオルタナティブのあることならば直る。

以前は当たるのはよくないと考えてナアナアにしていたが、それがかえってよくない。
こちらは是正されないストレスをため、向こうは怒られているのかどうかよくわからず、結局飼い主の閾値を越えたところで爆弾を落とされる。
それくらいなら、ここがよいと思うところでピシッとしっかりとアピールしておくのがよい。

というところで、このところずいぶんとお互いによくなった。
過度の管理主義でなく、お互いの必須なところ、禁忌、代替法を十分に踏まえてしっかりとやりとりする。
人間関係も同じだろうが、いまは人間関係の方がむつかしい。
自分自身理不尽と思う怒鳴られ方もされてメゲたことも少なくなく、彼らにも理由なく、あるいは冤罪で怒鳴るようなことを避ける必要はある。
けだし同種であれ、異種であれ、信頼感なしに良好なパートナーシップの構築は不可能だからである。

2015年2月17日火曜日

諦め

曽野綾子女史がバッシングを受けている。
亡くなられた池田晶子女史も、他人の闘病記を辛辣に語ってその患者のファンから嵐のようなバッシングを受けた。
まあ、この方々がこう言えば、ああいう奴がウンカの如く涌いて出るのは必定。
ネットのせいでもあるが、日露戦争の頃からある。
政治家は命懸けだった。

今日のテレフォン人生相談はぬるい女性が相談者だった。
浮気3年で本気になり結婚したいという。
親も、ラジオの担当弁護士も「あんたの思うように旦那騙して円満に別れられないだろう」とアドバイスするが、本人にはピント来ていない。
旦那には慰謝料請求され、思春期の子供には唾棄され、相手ともこのような諸々で嫌気がさして別れるのが関の山と岡目八目では見立てられるが、本人だけが分からない、分かれない。

このところ士業の窮状を奇貨として変テコ売り込みの電話ファックスが多い。それ臭いものは速攻着信拒否にするが、冒頭に書いた言論摩擦と同様にストレスフル、面倒である。
そんな時代にテレフォン人生相談のご婦人の如く能天気でいられるのは、ある意味で恵まれているのだろう。
都会の魚は釣れにくいというが、焼き魚にもなっていない。

まあ、どの時代の時代人も老若男女、こんな時代に生まれてきたかったと生まれたわけではない。
生まれたのやら、産み落とされたのやら、主語も文法もあやふやで生きてみたら、いまここである。
諦めろといったところで、諦めきれぬと諦めるのがせいぜい。

ということで、シコシコと神や仏や天が宿っているらしき細部をこなし、付き合い、生き往くほかないのだろう。

時制

先日亡くなった渡辺淳一氏がまだ精励に医学小説を書かれていた頃、自分が主治医だったらしい少女が、亡くなる前日必死で将来治ったらこうなりたいああなりたいと言って逝った話を書いておられた。
ベッドのまだ暖かい凹みの描写もされていて、夭逝した少女の切なさ、もののあわれを感じさせる叙述だったが、このところ日々そう思う。

生きているのは今を限りで明日は知れぬ。
この少女のように明日明後日はないかもしれぬ。
あとになって、あの頃はと追想できるのは実はまずは幸せということである。

過去も同じく。
済んでしまったと思われる過去が浮上して今を蚕食されるのは小説や有名人のスキャンダルだけではない。
親の介護、グレた子供の面倒などもさも似たり。
子供の頃に世話になったから、自分が作った子供だからと言っていられるうちはましで、限度を超えるとなんとかならんか、なんとかなってくれとなる。

こういうことが多発すると、世の常識は変わる。
その転換点に今来ている。
さかしらに古いパラダイムで自分を棚上げして棚上げ音頭を謳っていると痛いシッペ返しが来そうな様相である。

2015年2月16日月曜日

強み弱み

まだ結構降っている。
ピークは越えたと思っても、それからも結構長い。
体調良好でないので、雪はねも最小限にセーブ。
一年前にみまかった近所の婆さんは、圧迫骨折が痛いとボヤキつつ独居で有償ボランティアに頼りつつ最期まで凛々しく雪をかいていた。
やはりアグレッシブな人だっただけに根性が違う。

考えてみれば、こんなに寒く面倒な雪に閉じ込められてよく住んでいられるもんだが、慣れてくると、これがなくなったときの解放感を思うと魅力的なのだ。
マゾというよりは、二本バットから一本に切り替えて球を叩く快感といおうか。

ところで先ほど聞いたテレフォン人生相談。
相談者は63歳の男性で、結婚相談所で紹介を受けた57歳だとかの女性と数度目の結婚。
共に子がおり、四人子供のいる妻の長男が三十代だとかで鬱になりローンパンク。相談者が月八万だとかを払ってやってきたが、このところ妻を見ても拒否反応と相談。
回答者の幼児教育の研究家は、妻への負担感、色気でトラップされているところの自己嫌悪のようなところを指摘していた。
パーソナリティーの加藤諦三氏は大好きな心理分析で、不逞な父親とその苦労に耐えた母への思いから、そのような女性に惹かれて一緒になったものの、女性の手練手管に身動きならなくなった貴方がいるという話。
まさにそうだろう。

他人の話ならよくわかる。
しかし、自分のことはなかなかわからない。ほんのちょい前のお前がそうだったじゃないかと己に問うと、アワワの様相もなくはない。
これがないと人類は滅ぶのかもしれないが、いまやそのリスクが大きいから少子高齢化なんだろう。
またしばらくニアミスの脂汗を自省しなければならない。
天の采配に感謝。
体調不良だって、不幸だって、自分にとどめられるはハッピー。

一粒の砂

確か「真理を見つけるのは砂浜に一粒の砂を見いだすようなもの」といった名言を読んだことがあるように思って調べたが、多分この人の言葉かと思っていたニュートンの名言集にも出てこない。

まあこのような格言があるとして、このところの「真理」は文明の利器、最先端テクノロジーを使って行い、領域の拡大、進化、深化が止まるところを知らない。
そうなると量的にも質的にも追い付けない、専門家と称しても部分化狭細化は必然となり、全体像や哲学など想いをはせている余裕などなくなる。
そうすると一人の人間としては凡庸な判断力のほかよるべないゆえ、本当の専門バカが出来上がることになる。

これは学者研究者専門職に限らず一般人も同じ。
情報は処理できないほど接触するのに吟味する余裕もない。
子供や若者が少子化だからと大事にされるかというと、親や学校や職場、世間に大事に育まれるかというとさにあらず。
さっさと大きくなれ、トラブルがあったらおれたちの責任になるから無難に立ち居振る舞ってくれ、それではぐれたら過酷な処遇をいただく。
ホントにのんびりしない。

こういうことを考えると、冒頭の「真理」を「適切なありよう」で置き換えると、これこそ万分の一、億分の一の歩留まりだろう。
これを思い知ったのも、このところの必需品SNSである。
一定以上のactivityを経験してみると、管理者がどう動くか、人々の裏や表が好事家的興味に関係なく見えてくる。
そうなると過剰な思い入れやインタラクションなど不要、自分とは関係のないところで各位の興味や利害は動いており、どちらかというとこちらはビハインドにして、一粒の砂の探索や研磨に勤しめばいいことがわかってくる。

ということで、このスラプスティックな時代、よくも悪くもこの辺りから出発しないと間違うという気付き。
一回りプラスアルファーでも思い知らされること、日々是再々。

2015年2月15日日曜日

プロファイリング

雪山に閉じ込められていることもあるが、このところの日々の集積というか、つけというか、少々身体を本気で労らないとヤバイという症状も出ているので、セルフケアに努める日々である。

この作業で気がついた。
文明社会での多重人格性である。

医療もお大事に程度の思いやりで医道的ヒューマニズムが発揮できた時代は、素朴な優しさや隣人愛が通用した。
しかし、今や時代はハイスペックで、複雑系の時代。
医師ですらもうヒポクラテスを脱するなどと標榜する。

自分自身そうである。
自分はセルフケアにはこうするが、患者さんに向き合ったときにはとてもそうできない、しないということがずいぶんある。
考えも違う、希望も違う、技術や文明文化への志向が違う相手に、自分にはこれがいいからと処方を提供すれば、ひとつ間違うと大悲劇が生じる。

これはその他の人間関係、立ち居振舞いでも同じようなことがいえる。
自分にはこれがいいからと、他人様に強くアピールすれば、それはずいぶんと外れになることは、このところ多いように感じるようになった。
これは謙抑性の勧めというつもりはない。
むかしも、薄情も情のうちという言葉もある。
その人が嫌えば、いくらそうしたらそうなるよと思っても黙っているしかないことも少なくない。
某有名評論家は、淫祠邪教に走った娘の脱マインドコントロールに必死で頑張ったが、しばらくして亡くなった。
このような命懸けも愛ゆえで、それは否定できず、唾棄すべきでない尊い行為とも思う。
ただ、そういうことのなかなか選びにくい時代に入ったとも思い、それゆえ自分のことは自分で始末をつけるしかない時代かと結論をより強めている。

2015年2月14日土曜日

エイヤー

厳冬の疲れが出たのだろうか?
八時間寝てもまだ眠い。
よくわからないが、なんらかの不調原因があるのだろう。
自分にはわからない、見えない素粒子的なわけもあろうから、それ以上考えてもしようがない。

SNSやblogなんかでもそういうことはある。
この頃姿が見えない。
病気や不調かもしれないが、「友達」なんか瞬時に外せるし、ブロックもできる、「友達」を維持して発受信をカスタマイズできる、ネット管理者の作為もありえる。
そんな可能性を考えたら、「本当の」ところはわからない。

先ほど今までフォローしてきた中位有名人、知る人ぞ知る程度の御仁が、たかがSNS切った切られたでうだうだ言うなと吠えていたが、そのわりには自分がどうこうの場合はどうこうされた、ああでもないこうでもないを連発する。
こういう見苦しいことは止めたいものだ。

そうなれば、淡々と自分の見立てで、既述の可能性踏まえて自分なりの割りきり方、エイヤーをやるほかない。
ということで、今風の天上天下唯我独尊を方針とする。

2015年2月13日金曜日

底と天井、ポートフォリオ

メイン機で使っているのが某外資系社製のネットブックだ。
かつて最低限ネットやワープロに使えればいいと銘打ってリリースされた2、3万の安物である。
今朝もブラウザを実質広げられない。
USBのジャックも壊れてるのか半壊なのか一人前いかない。
なぜそんなものを使うか?

最悪でもないが、やっとこ使える代物。
それで何とか使えれば、底を知ることができる。
最先端の機器でも、壊れれば、壊れかければ一瞬でこれ以下になる。
それを意識するためにも、また他機のメリット、スペックを実感するためにも壊れるまで使おうと思っている。

一番新しいもの、いまのところ庶民には痛いがこの程度がアッパーかというものを使っていると気持ちはいいが、実際に使いやすいのは中ぐらいの品である。
適度に使い込んでいて、なれてもいるがそう陳旧化もしていない、そういう感じのものが一番なじむ。

こうしていろいろと使って訓練、投資、ポートフォリオを試みているが、これも当てにはならない。
災害や戦争などといった大文字の厄災でなくとも、パイプのひとつも破綻すれば、マンションの復旧に己の蓄えでは足りぬほどの事故になり得る。ガスなら死ぬ、いわゆる植物状態になりかねない。
そうなると、中途半端なポートフォリオなんぞ、結婚式の祝辞の「まさか」という坂で瞬時にまっ逆さまにクラッシュする。
そういうリスクの中で、怯えきらず、夢や安らぎ、本気のプロジェクトを持って往くというのが人生の醍醐味というか、諦めどころだろうか?

2015年2月12日木曜日

ネット坂

物わかりの愚図である。
しばらくやってやっとわかる。
まあ、結婚や人生のように半生一生一区切りやってやっとわかりかけるところはおいて、ネットもしばらくやってちょっぴりわかる。
ITには技術革新等が必ず付いてまわるので、それもいたちごっこだ。

かつてネット知己の某氏に発信し過ぎと諌められたこともある。
まだネットがヨチヨチの頃に双方向と標榜しながら、発信してないじゃんと通りすがりのおねえに叱咤されたこともある。

このところ少し精力的にネット発受信をしてみて気付いたというか、定見に落ち着いた。

まず、発受信は時間さえあればいくらでもできる。
ネットでfollowした青年は一日中やっているようなのでblogをみてみると、アフィリエイトで食ってるそうな。
それで食っていけるというのだから、まあ「仕事」だ。
しかし、それもなんだかな、の生業だ。

ネットで精力的に回ってみると、いろいろな類型がみえる。
上記のような例以外では、ニュースfollow大好き型、政治的主張大好き型、人生訓アップ大好き型、商売宣伝型、食べ物写真紹介型、身辺雑記披露型、方々にイイネ付け回り型、エロ掲示注意吸引型、その他もろもろ大体は類型的である。
そういう作業の落ち行く先はマンネリズムである。
だから冒頭に言及したネット知己の諫言とパラレルな結論に落ち着き、類型的なマンネリズムや馴れ合い、その他あまり己が思っても芳しくないなというところに陥る動作はできる限り謙抑的であろうと、ミニマムかつ山椒は小粒で、、、的な活動にしようと決めた。

もちろん、繁忙期であっても要所要所では手入れしようとは思っている。
この時代、先日ちきりん女史のアップしておられたように、ビジネスだってメールなしでは陳腐化する。
だからこそ不要な冗長性をオミットして自家薬籠中のものにしなければいけない。

ということでお付き合いある諸氏、よろしくお願いいたしますという次第である。

アレンジメント

雪に閉じ込められているのと、正月の外回り優位の疲れが出てなどなど、おこもりネット回遊生活となっていた。
それでも、インナーであっても他にしなければならないことが増えれば、当然割り振りは違ってくる。

そんなことを考えていると、己の行動論や一般的な行動論に進んで行く。
そのときとるべき最適がなにかと考えると難しい。
まずはその時の余裕、リソースに合わせるほかないのだが、暇だからと無駄やムラばかりだと果実に乏しくなるだけでなく、方向が曲がっていったり、変な癖がつく。
だからといって、さっさとやるばかりでは、せっかくの試行錯誤の妙に出会えない。
忙しいときもモードの利害特質は似たようなもの。

てなこと思い、やはり無駄ムラ無理を排し、定常状態になってもこれが合理的なモードだろうと想像するところに照準を合わせる。
選好、選択、嗜好も自ずから炙り出てくる浮き上がって来る。
また自分の存命中かどうかも分からぬ長いスパンで生起してくることもあろうし、三次元というよりは四次元に勘を働かせてポートフォリオするほかないこともある。

最後は下手な考え休むに似たりでエイヤーとなるわけだが、そういう意味では一期一会。
まさに生花でのフラワーアレンジメントのようなものということになろうか。

2015年2月11日水曜日

摩擦係数

スーパー宅配の精算中。
車一台やっとこの雪山の隘路。
つり銭で終わりというところに軽自動車からクラクション。
兄さんどうするかと見ていたら、ちゃんと車をT字路まで移動させ、やり過ごしてバックで戻ってきた。

ちょっと待ってくれと合図してもよかったんだろうが、このところ変なのも多い。
トラブれば、下手すると職を失う。
まあ賢明な立ち居振舞いだろう。
摩擦係数を小さくして炎上を防ぐ。

ところで、だからといって、摩擦係数が小さ過ぎると滑る。
転ぶ、ケガ人が出る、極端な場合は死人が出る。
法律にも正当防衛、緊急避難が書いてあるゆえんである。
スワットのような機敏で的中率の高い対抗策が必要になるかもと、刀狩りの伝統が長いわが国でも不安感が多く人を包み始めている。

摩擦係数は、北国では毎朝毎晩体感する。
わかってないと、自然に転倒させられ、頭をうち、骨を折り、下手すると入院、お陀仏と瞬時にシフトする。

まあ、生き物の基本的センス。
路面だけでなく、よくわかってないと危い。

冬から春へ、春から冬へ

某SNSの不自由も少し緩んで春の兆しかとも思わなくもない。
しかし、それもロックドイン中にアプリその他を駆使し、システムのプロファイリングを行い、試行錯誤の結果やっとたどり着いた寛解。

逆にネットに限らず、戻り冬の兆候も。
ネット内外の言動、企画、立ち居振舞いで、訴訟に至るような争いも増えている。
小保方女史の(空)処分発表後に当局が研究費返還の検討とのニュースも流れた。
スタップ細胞はなくともスタップ現象はありうべしの見解も巷に少なくないが、パイオニアを目指せば某暴力集団にまでは及ばぬが地獄に落とさんがばかりの指弾を受けるならば、オーバードクターや若年研究者だけでなく、中堅大御所もリタイアしようかなとなっておかしくない場の荒れ方になっていこう。
言論合戦もすぐに訴訟という風潮になりつつある。
それが欧米風の法化社会と言えば、しばらく前お上からも司法改革と旗振った通りになって慧眼ということになろうが、肝心の司法界がボロボロ。
弁護士の窮乏化は常識となりつつあるが、不祥事も無数に発生している。
今まで通りのムラ社会が崩壊し、ベテラン含めての不採算過当競争の現場で、人様の命の次に大事な金銭や資産を預かれば、横領や詐欺といった誘惑的な犯罪が強く担当者をトラップする。

こういう状況で、戦争や人傷沙汰ほどでなくとも、信用不安や危惧感が強くなり、慎重でクレバーな人ほど身を引くスタンスになる。
人々のドライブがこうなれば、経済のデフレ圧力も払拭できず、世は冬の肩凝り、縮みに戻る。

わが生活も、しばらく延び縮みさせてみると、このような波動を続けて、ささやかに宇宙に痕跡を残して去ってゆくしかないかという結論に至っている。
仏教的無常感の現代版だろうが、この辺りが穏当ではないかと想っている。

無知の知アプリ版

分かりにくい時代という話のアプリ版。

某SNSでマーキングされて不自由なることは既にしばしば言及している。
ところで、これもアプリによって程度が異なるのだ。
PC版のアプリとスマホ・タブレット版のアプリでは、流れるTLや書き込み可否が異なって登場する。
発信も別のSNSソフトと連動させれば、不自由度というか管理者(システム)に影響しない。

こういうアプリ、ソフトによる見え度、疎通度、管理度の違いなどパソコンにさわり始めた頃からイヤほど経験してきた癖に、腑に落ちたのはやっとこのところだ。

これはネット、IT外でも言えることだ。
人間関係、プロファイリングやインテリジェンスを駆使して必死に読み込んでも、わからないとした方がよいところは少なくない。
結婚式のスピーチによく使われる「まさか」という坂だ。
だからこそ、株でナンピン買いと呼ばれる手法が使われたり、リスクヘッジのための金融商品が用意され、人生でも保険だなんだとまさかの手当が商品になっているのだろう。
もちろん、死んだらどうするこうするというレベルまで行けば、まさかの結果を甘受するしかないが、それに関係する残された者への配慮もするのが大人のたしなみとはいえる。

知っていることのそう多くない適切でないといった謙抑性は重要だが、無知の知ゆえその先に想像力を働かせる賢しさも重要といえよう。

2015年2月10日火曜日

歴史の曲がり角

ネット渉猟していると、これはただならぬ転換期と気付く。
国内外、遠く、隣人問わずである。

いわゆる日本的リベラル、「護憲派」などが言う意味を超えてである。
わが誕生は、戦後十年足らずで、戦争の傷がずいぶんと癒え、親たちも戦時下の体験談を思い出と語る中で育った。
その後は、高度成長一途で、ピーク前から石油ショック、バブル、バブル崩壊を経験したが、現下の世界中の主要国が欧米、アラブその他が一致して与して、007のスラッシュのごとき悪の集団ISIS,ISIL通称イスラム国と呼ばれるテロリスト連と闘う図など全く想像もしなかった。
飽くまで娯楽スパイ映画の上の話でしかなかった。

近隣もそうである。
故郷とそう遠くない地で、はたちすぎの青年が隣近所の小学生を殺害した。
何らかの遺恨がありそうである。
全国で、小学生から大学生まで、同級生を惨殺する事件が絶えない。
戦後の混乱期にはもっと多くの、粗暴な若者の殺人事件があったというデータはあれ、戦争直後の混乱期、飢えや生きる必要、貧困とその圧力ということで、それなりに理由をつけることができ、一応理解はできなくもない。
ところが、長者番付に出そうな(今はないが)セレブの子弟や旧帝大の学生といった「恵まれた」子供たちも、あるいはだからこそ起こしたかもしれない悲劇が、いま起こりつつある。

斯くして、遠近まちがいなく未曾有のアウラがわれらが界隈をプノイマとなって徘徊していることは間違いない。
別に悲観論を好んで選ぼうとは思わないが、多分これら前兆が大きなビッグウエーブとなってわれわれを押し流しかねない。

阪神大震災、東日本大震災は記憶に新しいが、鴨長明の方丈記は災害戦乱のレジュメである。
そういう国であるという自己認識で、この歴史の曲がり角に立つ。

そこからスタートなんだろうなと思う今日この頃。

自己認識

このところ相当の見識がなければこの世の出来事が見透しにくくなってきた。
国際化、情報社会、暮らし向きのおひとり様化その他あげ出せば無数の要因はあろう。
そんな状況でもエネルギー一定の法則や矛盾したオプションは同時に選べないというトレードオフということもある。
そうなると無明とまでは言わないまでも、結構頼りない暗がりを歩いている図となる。

勿論そんなことは大昔から古代人もお見通しで、色即是空、魑魅魍魎、パピルスにも今の若い者はと書いてあり、無常、予測困難、環境変化で一般的定言は容易でないことは常識では来ている。

そうなればみんな惚けのようなものでもある。
認知症の診断基準等をないがしろにするという意味ではないが、文脈、常識、時代変化へのセンシティビティなどを加味すればベビー層を除けば一億総惚け状態ともいえるだろう。
とりわけ他国に渡らずとも、自爆テロ、通り魔 、ストーカー殺人などが国内近所でいつ起こっても不思議でない時代。
要は信用不安が普遍化すれば、被害妄想、護想過剰防衛的イクウイップメントたっぷりの人々も増える。

そんな中で逆に無関心能天気パッパラパー、デスペレートどうなとせいといった人々も増える。
そういう時代状況、世相を見て己にできることは何か?
自分も惚けてはいるだろう自己認識の歪み、しこり、たわみを、ストレッチ、リラクゼーションでほぐし、ゆるめ、ナチュラルにする。

そんなところだろうか?
それにしても人生一周ちょいとで見返せば、よくもまああんなこんな無茶苦茶で生きてきた生きてこれたもんだ。
周囲に迷惑かけた分を償えと、神仏、天に命じられ、今しばらく筑波のガマの如く脂汗流しながら、小野道風の蛙のようにピョンピョン飛び続けなければならないのだろう。

2015年2月9日月曜日

思い込み

ずいぶんと雨降り。
某SNSの知己は、いつもは雨だが今日は雪と。
ずいぶん気候帯の広い国である。
昨日みたyoutubeのBSアーカイブでは、解説者が世界地図で日本を西にシフトさせたら、ヨーロッパから北アフリカに相当する。
これも小学生でもできるシミュレーションというか、簡単な学習だがインナーなわれわれにはなかなかできていない作業。

当地の雨も、少々の雪は融かすが、融けた表層の水分が氷り、翌日はアイスリンクのごとき環境に転じる。
こういう氷も零下厳しい気候になると滑らぬという。
タクシー運転手氏に教えてもらったが、ドライアイスがくっつくようにシベリアの極寒ではノーマルタイアでも滑らないらしいと聞いた。

かくのごとく思い込みが、暮らし、聞き、学び、身体的にも滑り、転び、立ち直り覚えていく。
このように考えると、そういうことを捨象して何が適する、何がいい悪いを詮議するのもちょいと、いや決定的にピンぼけ、大間違いになりそうである。

そういうことも考え、このところ他人様への強いプッシュは控えるのがよいと、あえてビハインドにしている。
もちろん、走り込みは大事ゆえ鍛錬仕込みはしっかりとしないといけないと心得てはいるが。

2015年2月8日日曜日

量子力学的時代

このところSNSの連携が進み、己もその機序やトレンド、機微が少々わかってきて、摩擦係数ちょうどよく滑らないで移動できるようにもなってきた。

それで気付くこと。
まず報道が難しい。
発受信ともに。

ニュースというぐらいで、古いとニュースでない。
早稲過ぎると実がなく、砂利が入っていたりで口にできない。
そんな時代ゆえ、マスコミでなくとも立ち居振舞いが難しい。

SNSだけでなく、口コミ含めてさまざまな階層で情報が到来する。
玉石混淆真偽不明、センサーのこちらもリテラシーは昨日と異なり、おとしどころは混沌と呼んでいいるつぼ。

つまりは、シュレ猫ではないが半分生きて半分死んでいる。
半分真実で半分嘘。
そんなところで多々いままでにない悲喜劇も生まれようが、いまのわが関心はそれでも豊潤で感動的なシーン、物語が可能かといったところ。

その辺りは、昭和天皇の仰せられた文学的問題でもあり、容易に言葉にできない。そこがよかったり、大変だったりする。

2015年2月7日土曜日

あずましくない時代

わが故郷近くで小学生が、近所の二十代の男に刺殺されたとのニュースが飛び込んできたが、一家に私怨あっての凶行のようである。
核や国際テロで死ぬ確率よりも近場が危ないのは熟考しなくとも、単純な確率論でわかる。

質の向上のスローガンにかかわらず現実の劣化、便利の追求がとんでもない不幸、落とし穴を提供するのが現代のパラドックスだろう。

今日もSNSの連動で投稿しようとしたら、何々の情報閲覧を許可せよと来る。
まだ許可求めるだけまし。
ひどいアプリに乗ると無体恐怖のハッキングに会ってIDを乗っ取られるという。

当地の方言に「あずましくない」という言葉がある。
もっぱら否定形で使い、のんびりしない、気持ちが安穏でないという謂である。
いまや国際情勢から隣近所まであずましくない。
まあ江戸時代だって刀を枕元に置いたし、ネアンデルタール人だって獣に襲われないかと念慮しつつ壁画も書いたのだろう。
都会の魚は釣れにくいという。

せいぜい、いまように鍛錬していきるほかない。

2015年2月6日金曜日

することしないこと

する、あるいはしない。
実に微妙である。
人生思い返せば、あそこでしていれば、していなければ、死んでたかも、死なせていたかも、それほど大層なことでなくとも、人生えらく変わっていたような岐路はいくつかはあった。

また違う見方をすると、自分の癖、自分が選ぶ環境、オプションを思い返せば、こうなるのが必然だったのかもしれないとも思う。

いま盛んな分子生物学の先駆けであったジャック・モノー氏は「偶然と必然」なる一種の科学哲学書をものし、上記のような議論をなしている。
偶然と呼ぼうと、必然と呼ぼうと、いまこのようにあり、かく静動を展開しているのは、このとおりであり、これ以外ない。

ただ、しばらく前に、いまと違ったリテラシーや情報を持っていたことを思えば、実にきわどいなとも思う。

知ってしまえばそれまでよ、知らないうちが花なのよ~♪なんて戯れ唄があるが、実際はそのとおりである。
だからこそ未明の第六感を研ぎ澄ます必要もある。
そこには自分はいつも外すとか、絶対にメジャーでなくマイノリティーだなどというパラドキシカルな考慮も参入させなければいけない。

このところ、こういうことを思いつつの、エイヤーの連続である。

2015年2月5日木曜日

起こらぬこと、ならぬことの意味

養老翁は、よく起こることの意味と同様起こらぬことの意味を吟味せよと教える。
よそではあれだけ起こっているのに、こちらでは起こらぬ。
こちらではこうなのに、あちらではああ。
それにはそれなりの理由があろう。

わが国は遺伝子分析では、さまざまなルーツで人々が集住するようになったと明らかにされている。
その人々が、地政学的に島国としてアイソレーションされた為だろう、八百万の神仏を抱き、一神教の国ではしばしばみられた徹底的な宗教的抗争やジェノサイドを免れ、せいぜい島流しや平家の落人集落で済んできた。

狭い国土、細い弓なりの地で、とことん殲滅戦を戦えば、日本沈没状態は神代の時代に招来されただろう。
日本古来の憲法17条も基本理念を和を以て貴しとなす。
王家も絶対王政などからはほど遠い祭司の長である。

こうして大したナショナリストでもないわれも、わが国に起こらなかったことごとを上記のようにことほぐ気はあるものの、このところの国際化、ボーダレス状況はついにそのようなモラトリアムを許さぬかのようである。
特に基本認識は変わる変える必要はないと思うが、まあ大変ではある。

ならぬこともさも似たり。
このところならぬことは、それなりにならぬ理由があり、ならぬ方がよいのかもしれぬ。
それでも運命の不可思議さを味わえるところまで行けば一人前なのだろうが、まだまだ半人前の自己満足も得られていない。

小春日和

桂枝雀さんは、よく「緊張と緩和」ということをおっしゃった。
笑いはそこに生まれる。
笑いのない生活は辛く苦しい。
ワンコだってにゃんこだって、泣き笑う。
その辺りがわからないのはインテリジェンス欠乏症である。
ユーモアは生物に必須であり、洒落がなくては生きられず生きている値打ちがない。

小春日和は、緊張も溶け、緩和で余裕が生まれる。
このありがたさを享受すべく、このところインナーで緩和やユーモアを享受させている。

結論は、無理強いはしない、無理はしない、押し付けを我慢しない。
この辺りの結界がこれからの課題になるだろう。
個人にとっても、世界にとっても。

2015年2月3日火曜日

連発

Youtubeで見つけた連続演奏について書こうと思って忘れた。

前の材題の成長がらみである。

松山千春の最近の唄を聴いた。
コンサートの〆に唄った絶唱である。
故郷の海、オホーツクを唄う。
若き日の恋愛歌に比べれば、ほとんど詩吟といってよい。
ギターも伴奏に任せ、ひとり朗々と吟ずるように歌う。

やはり年相応の成長と評すべきであろう。
その中には来し方、行く末が朗々と詠まれている。
人は生かされる限り学ばせられずにはいない。

往くまで精進するほかないということだろう。

変化あるいは成長、未来

豪雪にクランチされたお陰で室内作業に専念できている。
某SNSも内部リンクをたどれば露骨な妨害度も落ちることを知り、いまだにフリーハンドは得ていないものの、時間はずいぶんとスピーディーになった。
ネットだけでなく、律速段階をブレイクスルーできたのか、いろいろとスムースに進んではいる。

ただ、スピーディーゆえに尊しとしない。
発生学では、個体発生は系統発生を繰り返すという。
子宮の中で我々は魚から上陸した獣まで変態を続け産み出される。

さてこれまではよかった。
今やこのモデルがない。
iPS細胞は、これらの時をワープすることを売りとする。
そして我々はモデルとする未来像を持つことの困難な時代にたどり着いている。

とりわけ核やテロで潰えるとは限らない。
町々で、畳の上で、我々はどうなっていくのか。
ボーダレスに因果が巡り、計算は何十万年に一度などという話は、簡単に確率論を凌駕する。
多分現代人は準拠するモデルを喪失しつつバックトゥザフューチャーしつつあるのだろう。

さてそこでどう生き死ぬか。
我々現代人固有の課題かもしれない。

無知の知

都市機能は維持されている。
道北の写真にはほとんど埋もれた車が写っているが、都心はそうでもない。
コンビニの品揃えを見れば普通に流通は維持されている。
積年の学習の尊いところだ。

学習で心もとないのは、鳥や獣についてだ。
カラスや小鳥は飛んでくるし、近所の樹木も小鳥の鳴き声で賑やかだ。
ではキタキツネや蝦夷リスはどうか。
熊は穴で冬眠し、小動物は樹木の窪みに潜み暖をとると公開講座のフィールドワークで学んだ。
中くらいの獣はどうしているのか?知らず。

知った積もりで知らぬことの多いこと。
それが宇宙から素粒子まで、国際関係からご近所付き合い、親子男女関係まで語る。
実に心もとないがそれが実際のところだ。
無知の知、センサーとしての己の限界に十分な謙抑性が必要な所以である。

2015年2月2日月曜日

ミッションインポシブル

スパイ大作戦なんていくつ位で見たのだろう。
指令のペーパーは燃え尽き、エージェントは自己責任を告げられる。
まあ、現実の世界でも当局は一切関知しない。

それがわかっていながら、そのような任務に喜んでついた人間は全知全能を傾けて完遂に突き進む。
そこにあるのは多分好きというところだけだろう。
好きこそものの上手なれという言葉があるが、下手の横好きという言葉もある。
そもそも天職、命懸けになれる仕事、やりがいなどそう簡単にあるわけではない。

足掻いて紆余曲折しながら出会ってしまうようなものだろう。
さて、このように思ってわが足下を照らせば、どのような反射光が見えるか。
いまだにしっかりと足下を見つめる余裕はないが、最後の生きがい死にがいを模索していることだけはまちがいなさそうである。

人生いろいろ

豪雪だ。
玄関を出るために必死で掃除をしてコンビニから帰るともう一仕事しないとまずい状況。
きりなしである。

何が好きでこんなところに居るんだろうと思う時期もあったが、今は結構面白がっている。
20数年前、遅れてきた入植者を気取った折りも、ぼくはとてもそんな寒いところには移れないと呟いた知己がずいぶんといた。
体質が合っていたのか、北の生活を放擲もせず、いまなおそれなりに面白がって生きている。

ワンコらのとの生活もそうだ。
こいつらとひとつ屋根の下に住んで、同じ布団で川の字で寝るなどは想像もしていなかった。
たった数年のことだ。
天文学的数字を語っても、このしばらくが大異変をもたらすことを想像すれば、時間論や空間論も主観と客観、間主観性を渡る視野が必須のように思う。

存在被拘束性、あるいは想像力

国の内外にまがまがしいニュースを聞きながら、まずまず穏便に暮らせている。

このような幸せを検証してみる。
水や空気がうまい。
アフリカやアラブの砂漠には水が乏しい。
われらが国だって、しばらく前までは水争いもあった。
北京市長も空気は生きるに困難と自認した。

これらからだけでも、実にわれらが現況の暮らしは恵まれている。
曽野綾子女史のアフリカ行などはミッションに基づくものだが、そのレポートなどを読むとわれらが暮らしは世界を見渡せば王公貴族レベルと慶賀してよいレベルとわかる。

ただ、無知蒙昧から不平不満、ピント外れの、故三宅先生おっしゃるところのポン助はこのようなポイント、機微に疎く、ネットなどでは支離滅裂なごたくが空を飛んでいる。そういう有象無象がのさばるにはのさばる理由もあるわけだが、これだけボーダレスになった世界では、それもなかなかたち行かなくなってはこよう。

ということで、先般書いたように、鏡に写る己も左右が逆で、客観視などということは至難の業ではあるが、それでもあそこで生まれていたらとか、ああ育っていたらなどとささやかな想像力を駆使して己のありようを省みる。
それこそインテリジェンスというものであろう。

2015年2月1日日曜日

「私」は必要か?

今はミッション感に溢れているので全く気にしないが、そこはかとない不全感にさいなまれ所在ない空虚さに葛藤していた日々は、「私」なんぞ必要なのか、果たして自分はこの世界に必要とされているのだろうかと自問自答を続けた。
妻子のいた頃はそれでも自分が悪戦苦闘であれラッセルしないと立ち行かぬと共依存、多重依存で気をまぎらわすことができた。
しかし、自由な独り身になると、そういう紛らわしは奏功しない。

己の不在、つまりは死後を考えると、「私」の有無などどうでもいいじゃないか、とも思わなくもなかった。
しかし、とりわけスピリチュアリズムに傾倒しなくとも、評論家的、コンサルタント的アプローチを進めてみると、「私」は決して「私」で終わらない。
親の因果が子に報い、元配偶者に及び、ブーメランで死後の自分のゴーストの動きにもビビッドに影響する。
養老翁は、他人のことどもに想像力を及ばせる能力をインテリジェンスといい放ったが、まさにそのとおり。

「私」の要否を知るためにも、ひとたび狭い「私」から離れる必要がある。
そんなことは昔の人もとうに気づいていた。夏目漱石が則天去私、鴎外が「かのように」と立ち居振る舞ったのもまさにそういうことであろう。

なんだそんなことだったのか

某SNSとの格闘もポイントに気付いたお陰で悩ましさが雲散霧消した。
向こうだって人海戦術はあり得ずシステム構築の上でのことであるから、別に属人的にどうこうは言わない。
ただ、政治的 、イデオロギー的ではなく、単に内部リンクを踏んでうちを潤わせてくれれば一切文句は言わないよ、なんて仕組まれているのに気がついていれば、こういう葛藤はなかった。

ただ、それだって二人相撲、一人相撲を取ってわかったことで、アプリオリにはわかっていない。トライアンドエラーをしていなければ思い込みに生きているばかりであったろう。

こういうことはマシンも同じく。
パソコン、スマホ、タブレット等々もそれぞれ個性、甲斐性、癖がある。
また、今の時代はクラウドも噛むから、TPOで見える世界、動く世界、これまたいろいろである。

ということで、このようなことどもも続けていくしかない。
要は、シジフォスの神話、さいの河原ということだろう。
ホンに、生きていくということはそういうことだわい。

ふたつの会得

やかんが真っ黒だった。
いいい加減な料理のなれの果て。
火加減というよりはまともに料理をしてこなかった証左だ。

料理の体をなしていなかったことをなしにはできないが、この真っ黒な炭化のリカバーはないのか。
ネットで調べてみた。
ちゃんとある。
重曹でやかんそのものを煮炊きしてみるとキレイに落ちる。
ピカピカになった。

物理や化学を受験や授業で詰め込んでもこういうことはやってみないとわからない。
逆にこういうことを手技として覚えたからといって、物理化学的機序がわかるわけでもない。
長嶋さんは、バットをこう振ってと教え、王さんなら荒川さんと真剣をこう振り続けと教えるだろう。
文武両道などは言うは易く行うは至難。

こういう当たり前のことを知るにも還暦プラスアルファーが必要であった。

生きていればこそ得られた知見。
大事にするにしくはない。