2015年6月27日土曜日

超限戦の時代再論

(超限戦の現代的意味)

超限戦という言葉をもう一度ウイキを介して確認してみよう。

『超限戦』(ちょうげんせん、中国語:超限战)とは1999年に発表された中国軍大佐の喬良と王湘穂による戦略研究の共著である。
中国空軍の喬良、王湘穂は、これからの戦争を、あらゆる手段で制約無く戦うものとして捉え、その戦争の性質や戦略について論じた。
本書の第1部は、新しい戦争についてであり、第2部では、作戦の新しい方法についての議論となっている。この中で喬良、王湘穂は、25種類にも及ぶ戦闘方法を提案し、通常戦、外交戦、国家テロ戦、諜報戦、金融戦、ネットワーク戦、法律戦、心理戦、メディア戦などを列挙している。そして、このような戦争の原理として、総合方向性、共時性、制限目標、無制限手段、非対称、最小消費、多元的協調、そして全ての過程の調整と支配を挙げている。
このような戦争は、別に中国に限らずグローバリゼーションの時代の戦争に特徴的なものであり、軍人と非軍人の境界もまたあいまい化する。したがって、本書は、単に戦争手段の多様化を示すだけではなく、それに対応した安全保障政策や戦略の研究の必要を主張している。

中国共産党論やウイトフォーゲルの東洋専制論はひとまずおいて、総動員型の戦争論としては悪くない発想だ。
シナだけでなく、アメリカだって昔から超限戦型に戦ってきた国だ。

中共空軍の超限戦発想は上記引用のとおりだが、地に足着くことを前提としていた昔は、空中戦は頼りない地に足着かぬバトルとされたが、いまや制空権をめぐって空中で覇を競う時代だ。

ウイットフォーゲルの東洋専制論も以下にウイキを引いておく。

カール・アウグスト・ウィットフォーゲル(Karl August Wittfogel, 1896年9月6日 - 1988年5月25日)は、ドイツで生まれアメリカに帰化した社会学者、歴史学者。ドイツ語風に「ヴィットフォーゲル」とも表記される。
フランクフルト学派の一員であったほか、東洋史、とりわけ中国研究において活躍し、「中心」「周辺」「亜周辺」といった文明における三重構造の概念を提示した。
現在のニーダーザクセン州に位置するヴォルタードルフで生まれた。フランクフルト大学で学ぶ。早くから社会主義運動に加わり、ドイツ独立社会民主党員をへてドイツ共産党員となった。1933年にナチスが政権を掌握すると一時投獄されるが、その後アメリカに亡命してアメリカ国籍を獲得した。このころ中国にも訪れている。第二次世界大戦後はパトリック・マッカランの委員会に加わるなど反共主義に転向し、ワシントン大学などで中国史を教えた。
青年期より中国に関心を抱き、中国の社会経済について研究を進め、官僚制の起源とされる四大文明が河川の流域に位置し水利事業と大規模灌漑農業に基づいた共通点から水力社会と名づけた。また、周辺民族が中国に同化されるという従来までの理解を改め、遼・金・元・清を「征服王朝」という概念を通じて考えた。
さらになぜ西洋や日本のようなウィットフォーゲルが文明の「亜周辺」と呼ぶ最も資本主義が発達した地域から離れた北アジア、中央アジアを抱えるソ連やモンゴル人民共和国から社会主義革命が起き、「亜周辺」の対極にある中華人民共和国、エジプト、イラク、インド、パキスタンなどは五カ年計画によって計画経済が敷かれ、非同盟を掲げつも中東戦争や印パ戦争ではソ連や中国と軍事協力するなどかなり似た体制をとってたかの問題に対し、アジア的生産様式の概念を利用して「アジア的専制政治」として説明した。ウィットフォーゲルのこの仮説はその理論通りにスターリンや毛沢東が自然改造計画や大躍進政策と称してダム建設や灌漑農業の集団化に邁進していた当時では反響が大きく、同じく中国を研究するジョゼフ・ニーダムからは反論を招いている。

さて、このような予備知識で、現代の超限戦的ありようを書いていく。

中国も中国だが、アメリカも中国によく似る。
民主主義を建前にするゆえ、今回の集団的自衛権騒ぎでも、あたかも立派な立憲国家のように勘違いしている連中もいるが、めちゃくちゃオポチュニスティック、ダブルスタンダード、陰謀論的国家である。

国是はマッチョな銃口主義。
だからライフルをはなせず、女性もデリンジャーを持つ。
共和党と民主党に別れ、わが国の中江兆民の描いたディベイト世界、三酔人のように語り合うかと見れば、さにもあらず。
党議拘束外し、多数派がつるんで攻め込んだりする。
内向のモンロー主義をとって、政府の費用もサスペンドする「立憲主義」をとるかと思えば、相手に手出しさせ、政治的な裁判所も口を出しにくい形で、犠牲まで出して反攻の形をとる。
だから陰謀論がよくでる。

こんなホンとは立憲主義とはほど遠い国にはさまれ、わが国もわが国なりの超限戦に突入している。
9条だって、1項を不戦条約に由来する侵略戦争の放棄とみて、2項はそういう侵略戦争用の軍事は持たないが、自己防衛には持つ。
そういうことでもオッケーで、だからこそ自衛隊も法制の中に組み込まれ、とうに法システムの一部になっているのに、「護憲派」もいままで税金ドロボー、その子弟など憲法で保障されている個人の人権を十分に蹂躙してきたのに、いまさら何が護憲だと、まさに聞こえませぬ。
とりわけ共産党など、米帝と罵り火炎瓶まで投げ、いまも天皇制反対となえ違憲のサボタージュ決め込み何が護憲だ。

学者らも、ムラ社会でスコラ論議を続ける。
イギリスは西洋的民主主義といわれながら不文の慣習憲法だ。
フランスは、民主主義となえ、ほんのこの前までギロチン残し、アルジェだかナイジェだか、外人部隊使ってすごい拷問などしてたので有名だ。
ドイツは占領下に憲法不可で基本法。
こういうことは決していわない。
ロシアだってソ連がこけるまで部厚な憲法もって、スターリンがメキシコに逃げた政敵トロツキーにピッケル落としする刺客を送っている。
中国も本気の人権派を戦車でひき殺し、いまもウイグルチベットでジェノサイドに手を染めている。
そういうこと無視して、どこが立憲主義だ。
わが国には太古より17条憲法があり、廃棄はされていない。
また、現代憲法は、第三者効規定やアファーマティブアクションで人権を実現化する発想があり、かびくさい権力掣肘の議論も非常にスコラ論議的だ。
そこまで人権派面するなら、中国の本気人権派と共闘して、キャタピラの下くらいまで行って欲しいもんだ。

日本にも多くの外国人が訪れる。
ネットでは、すぐ隣が外国だ。
だから毎日が超限戦。

わが日常も、超限戦テイスティングでSNSなどで一日が終わる。