2015年3月3日火曜日

みんな夢の中

承前日。
役所、企業、電話照会してみたら、もう少しわかり易く書いてくれていたら、手間要らずだったねって話。
そのためにあたしらが居るということだから、スーパーのカゴの如く放置して失業率を下げるのに協力するかということになるのかもしれないが、ちょいと工夫すりゃ利用者もこんな手間も要らず、それも税金や利用料で二重取りかと思うとブーイングは出る。

技術革新で質が向上と思いきや、さにあらず劣化顕著ということ多々。
要はいくら技術革新しても、解決せぬことは少なからずあり、その劣化部分が他を押さえる。
リービッヒの最少律のようなもので、足りない隘路でごてる、こける。
あわれな殺され方をした少年も、本当の駆け込み寺があれば惨事を免れたかもしれないが、学校も、母親も、警察も、児相、その他善意の人すらサポートできない。
学校は何十回と母親に電話を入れているが、母親もネグレクト気味なのか、のらりくらりとかわしている、警察も児相も事件の起こる前に駆け込んでも元に戻される可能性が高く、駆け込むモチベーションはわかない。
善意の人も、誘拐、その他犯罪の未遂、虞犯者の如く扱われる危険性の高い時代ゆえ、慎重な人ほど関与しがたい。
そんな中で、反社会的人格障害をうかがわせる加害者がフリーハンドを得て、現実がこう。
いまに始まった話でなく、連合赤軍事件、オウム事件、コンクリート女子高生事件、高学歴のスピンアウターから高校生まで、特にそれまでの異常性格性がうかがわれない人々が凶行に及んでいるのをみれば、必ずしも急にどうこうしだしたということでもないように思える。

昔どうり九官鳥のように口真似を続ける自称文化人も、自称教育労働者も、平和を唱えれば平和だとトートロジーを繰り返すが、敗戦時の教師のように、時代が変われば、自分の口に墨を塗るような悲喜劇を繰り返すのだろうか?

何かあると、ちょいとこうすりゃあうまくいくではないかとは簡単に発想したり、口にすることは容易だが、言うは易く行うは難し。
ちゃんとできない訳がしっかりとある。
みんな夢の中という話。