2015年3月24日火曜日

見ぬもの清

鶴の恩返し、やさぶろえ、その他こわい話はずいぶんある。

見るなの禁止を講じた友も、ドンタッチの言葉を敢えて無視して歌った。
友情だなあと思う一方で、さわらないで欲しいご本人の気持ちも思う。
だいたいは、こういうことは生きている人の自由になるから、言い残しても無駄かもしれない。

いろいろ見ると、語りづらくはなる。
戦争体験のある某万年助教授は、言えないこともずいぶんあると言っておられた。
単にPTSDなどと今風の話でなく、黙するほかない歴史的事実も山ほどもあろう。
五木寛之氏がご母堂の死をとつとつと書かれていたが、言葉を選んで、筆が折れそうなほど抑制が利いた筆致で、読めば想像できるものの、読者もrefrainし難い。

イスラム国の連中が、先祖帰りしたような残酷さで狼藉を繰り広げているが、大人しい戦記ビデオ見ただけで、実際の戦争のきつさがわかる。画面の端に山のような被弾者が横たわる。
首切りはイメージとしては恐怖の植え付けに好適だろうが、旧式の砲戦でも一瞬に屍の山であり、のんびりとした気持ちなど一瞬に飛んでしまう。

北アフリカといっても、イタリアのほんの先。
観光しかない国なら、恐怖のイメージは死活問題。
見ぬもの清でいかぬ現実ではある。