2015年2月8日日曜日

量子力学的時代

このところSNSの連携が進み、己もその機序やトレンド、機微が少々わかってきて、摩擦係数ちょうどよく滑らないで移動できるようにもなってきた。

それで気付くこと。
まず報道が難しい。
発受信ともに。

ニュースというぐらいで、古いとニュースでない。
早稲過ぎると実がなく、砂利が入っていたりで口にできない。
そんな時代ゆえ、マスコミでなくとも立ち居振舞いが難しい。

SNSだけでなく、口コミ含めてさまざまな階層で情報が到来する。
玉石混淆真偽不明、センサーのこちらもリテラシーは昨日と異なり、おとしどころは混沌と呼んでいいるつぼ。

つまりは、シュレ猫ではないが半分生きて半分死んでいる。
半分真実で半分嘘。
そんなところで多々いままでにない悲喜劇も生まれようが、いまのわが関心はそれでも豊潤で感動的なシーン、物語が可能かといったところ。

その辺りは、昭和天皇の仰せられた文学的問題でもあり、容易に言葉にできない。そこがよかったり、大変だったりする。

2015年2月7日土曜日

あずましくない時代

わが故郷近くで小学生が、近所の二十代の男に刺殺されたとのニュースが飛び込んできたが、一家に私怨あっての凶行のようである。
核や国際テロで死ぬ確率よりも近場が危ないのは熟考しなくとも、単純な確率論でわかる。

質の向上のスローガンにかかわらず現実の劣化、便利の追求がとんでもない不幸、落とし穴を提供するのが現代のパラドックスだろう。

今日もSNSの連動で投稿しようとしたら、何々の情報閲覧を許可せよと来る。
まだ許可求めるだけまし。
ひどいアプリに乗ると無体恐怖のハッキングに会ってIDを乗っ取られるという。

当地の方言に「あずましくない」という言葉がある。
もっぱら否定形で使い、のんびりしない、気持ちが安穏でないという謂である。
いまや国際情勢から隣近所まであずましくない。
まあ江戸時代だって刀を枕元に置いたし、ネアンデルタール人だって獣に襲われないかと念慮しつつ壁画も書いたのだろう。
都会の魚は釣れにくいという。

せいぜい、いまように鍛錬していきるほかない。

2015年2月6日金曜日

することしないこと

する、あるいはしない。
実に微妙である。
人生思い返せば、あそこでしていれば、していなければ、死んでたかも、死なせていたかも、それほど大層なことでなくとも、人生えらく変わっていたような岐路はいくつかはあった。

また違う見方をすると、自分の癖、自分が選ぶ環境、オプションを思い返せば、こうなるのが必然だったのかもしれないとも思う。

いま盛んな分子生物学の先駆けであったジャック・モノー氏は「偶然と必然」なる一種の科学哲学書をものし、上記のような議論をなしている。
偶然と呼ぼうと、必然と呼ぼうと、いまこのようにあり、かく静動を展開しているのは、このとおりであり、これ以外ない。

ただ、しばらく前に、いまと違ったリテラシーや情報を持っていたことを思えば、実にきわどいなとも思う。

知ってしまえばそれまでよ、知らないうちが花なのよ~♪なんて戯れ唄があるが、実際はそのとおりである。
だからこそ未明の第六感を研ぎ澄ます必要もある。
そこには自分はいつも外すとか、絶対にメジャーでなくマイノリティーだなどというパラドキシカルな考慮も参入させなければいけない。

このところ、こういうことを思いつつの、エイヤーの連続である。

2015年2月5日木曜日

起こらぬこと、ならぬことの意味

養老翁は、よく起こることの意味と同様起こらぬことの意味を吟味せよと教える。
よそではあれだけ起こっているのに、こちらでは起こらぬ。
こちらではこうなのに、あちらではああ。
それにはそれなりの理由があろう。

わが国は遺伝子分析では、さまざまなルーツで人々が集住するようになったと明らかにされている。
その人々が、地政学的に島国としてアイソレーションされた為だろう、八百万の神仏を抱き、一神教の国ではしばしばみられた徹底的な宗教的抗争やジェノサイドを免れ、せいぜい島流しや平家の落人集落で済んできた。

狭い国土、細い弓なりの地で、とことん殲滅戦を戦えば、日本沈没状態は神代の時代に招来されただろう。
日本古来の憲法17条も基本理念を和を以て貴しとなす。
王家も絶対王政などからはほど遠い祭司の長である。

こうして大したナショナリストでもないわれも、わが国に起こらなかったことごとを上記のようにことほぐ気はあるものの、このところの国際化、ボーダレス状況はついにそのようなモラトリアムを許さぬかのようである。
特に基本認識は変わる変える必要はないと思うが、まあ大変ではある。

ならぬこともさも似たり。
このところならぬことは、それなりにならぬ理由があり、ならぬ方がよいのかもしれぬ。
それでも運命の不可思議さを味わえるところまで行けば一人前なのだろうが、まだまだ半人前の自己満足も得られていない。

小春日和

桂枝雀さんは、よく「緊張と緩和」ということをおっしゃった。
笑いはそこに生まれる。
笑いのない生活は辛く苦しい。
ワンコだってにゃんこだって、泣き笑う。
その辺りがわからないのはインテリジェンス欠乏症である。
ユーモアは生物に必須であり、洒落がなくては生きられず生きている値打ちがない。

小春日和は、緊張も溶け、緩和で余裕が生まれる。
このありがたさを享受すべく、このところインナーで緩和やユーモアを享受させている。

結論は、無理強いはしない、無理はしない、押し付けを我慢しない。
この辺りの結界がこれからの課題になるだろう。
個人にとっても、世界にとっても。

2015年2月3日火曜日

連発

Youtubeで見つけた連続演奏について書こうと思って忘れた。

前の材題の成長がらみである。

松山千春の最近の唄を聴いた。
コンサートの〆に唄った絶唱である。
故郷の海、オホーツクを唄う。
若き日の恋愛歌に比べれば、ほとんど詩吟といってよい。
ギターも伴奏に任せ、ひとり朗々と吟ずるように歌う。

やはり年相応の成長と評すべきであろう。
その中には来し方、行く末が朗々と詠まれている。
人は生かされる限り学ばせられずにはいない。

往くまで精進するほかないということだろう。

変化あるいは成長、未来

豪雪にクランチされたお陰で室内作業に専念できている。
某SNSも内部リンクをたどれば露骨な妨害度も落ちることを知り、いまだにフリーハンドは得ていないものの、時間はずいぶんとスピーディーになった。
ネットだけでなく、律速段階をブレイクスルーできたのか、いろいろとスムースに進んではいる。

ただ、スピーディーゆえに尊しとしない。
発生学では、個体発生は系統発生を繰り返すという。
子宮の中で我々は魚から上陸した獣まで変態を続け産み出される。

さてこれまではよかった。
今やこのモデルがない。
iPS細胞は、これらの時をワープすることを売りとする。
そして我々はモデルとする未来像を持つことの困難な時代にたどり着いている。

とりわけ核やテロで潰えるとは限らない。
町々で、畳の上で、我々はどうなっていくのか。
ボーダレスに因果が巡り、計算は何十万年に一度などという話は、簡単に確率論を凌駕する。
多分現代人は準拠するモデルを喪失しつつバックトゥザフューチャーしつつあるのだろう。

さてそこでどう生き死ぬか。
我々現代人固有の課題かもしれない。